読書感想文

前回の更新から一ヶ月も経ってしまった。そろそろ何か形のある物を書きたいと思ってあれこれ考えたりはしているものの、20年以上も踏み出さないでいた人間が変わるのは容易ではない。ついこの間の土日も、生みの苦しみを味わう決心がつかないまま「しかしもう少し何か小説を読んでみてからでも良いのではないか?」と目の前のものを放り出して何やら名前の知れた小説を購入し、ついさっきまで読み耽っていた。そして今もうまい逃げ道を思いついてより精神的ハードルの低い作業に入っているという訳である。

このご時世であるから皆さん部屋に籠って思索に耽るであったりそれに飽きて何か今までにない具体的な趣味にでも手を出そうとして過ごす時間が増えたのではなかろうか。そう推測するのもまさに自分がそうであるからだし、例えば日記を付けている人や他にもアウトプットを志し始めた人を目にすることが多くなったからである。自分の場合は、ここはそういう場所であるので遠慮なく語らせてもらうが、12月から〜1月中旬にかけて毎日お絵描きに挑戦し、それに挫折してからはやはり消費活動に戻ってそれでも柄にもない読書をしてみたりあるいはやはりアニメ・ドラマを垂れ流したりしていた。一時期将棋にハマって YouTube で勉強したりしているうちに YouTuber を少しだけ新規開拓してみたり、3月に日本が卒業シーズンを迎えると周りの流れに乗って大学時代の振り返りと称して(それまできっかけを見つけらずもやりたいと思っていた)このブログを開設して一時的に文章を書くことに挑戦してみたり、あるいは全てやめて囲碁の定石を勉強し直してみて Oxford の囲碁サークルに(当然オンラインであるのだが)久し振りに顔を出してみたりした。今左を見て目に入ったので思い出したが、電子ピアノでいくつか曲を練習したりもしていた。

こう書いてみると、お前はきちんと博士学生として研究活動をしているのかという当然期待される突っ込みには曖昧に返事しておくことにして、なかなか多趣味と呼んでもよい生活を送っている。あるいは単に全てにおいて三日坊主なだけだというのもまた真実で、友人と競って続けていた絵描きもあちらが忙しくなった途端にモチベーションを無くしてしまい、ピアノは言わずもがな、このブログの更新もすぐに止まってしまった。結局のところ、他人の人生をつぶさに見ている訳ではないが、引きこもり低級者としてはこの社会の混乱の中でのごく一般的な数ヶ月間だったと推察される。勿論、日本での学生時代に私が学年を共にした多くの人々においてはこの途中で修士論文や卒業の疾走感があり、それが終わるとすぐに一人の資本主義社会の体現者としての新たな生活が始まり、オンラインの社員研修に愚痴をこぼしたりアサインされたプロジェクトでまだ勝手が分からず不安ながら残業をしたりと純然たる非日常が記憶に新しいことだろう。就職した人々を揶揄するつもりは毛頭なく、これは自分でもあまりにも暇な生活を送ってしまっているように見えたのでそれは卒業のタイミングの問題でしかなく私も半年と少し前の生活を一変させるタイミングでは次から次へと湧いてくる新しいなにかに振り回されていたんだよと自分にも言い聞かせているだけである。

枕はこれくらいにしてそろそろ本題に移ろう。タイトルにある通り今回は読書感想文を書かせてもらうことにする。先程まで読んでいた小説の勢いに圧されてこれは何かを書かなければならぬと思い立ち、まずはオリジナルのものでなくともそういえば最近読んだ本が幾つかあるからにはそれらからどういった感銘を受けたか若しくは受けなかったかを形にして残しておくのも悪くないという次第である。私は本を読むのがかなり速い方だという自覚があるがそれを誇りに思っている訳ではなくむしろそれによって無意識の読み飛ばしやそれこそムーディー勝山のように内容が頭に入っていないことも多々あるのでかなり後ろめたく思っている。しかしながら文章を読む際に必要な情報量といものがあって全てを咀嚼しきれていないとしてもそれより低速で言語を摂取するのに苦痛を感じる質であるのだ。まあそういう人種は珍しくないはずで近頃巷を賑わせているYouTube絶対倍速男というのもその部類であろう。少し脱線してしまったがつまりは本文の読みが浅いであろうことやさらに言えば内容の記憶違い等が多々あることを書く前から予告しておくがその点はご容赦願いたいということである。

さて、最近本を読んでいるといったが元来私は読書家とは対極の人間であり、特に東大時代は学術書以外の本を正確には分からないが両手両足で数えられる程度のシリーズしか読んでこなかったのではないかと思う。学術書も結局最後まで読み切ったものは無いに等しいのであるから除く必要はあまりないが、私が本といった場合はそれらを含まないことにする。今思うと日本に暮らして小説や伝記が図書館で無料で借りられるという破格の環境をどうして活用しなかったのかと悔やんでももう遅いが、簡単に手に入らないものが急に愛おしくなるのは世の常かはたまた逆張り根性か。軽口はさておき三日坊主といえども2021年の前半は既に小学校以来のペースで読書をしているように思う。紹介する本のうちにはライトノベルも当然かは分からないが含まれるのであるが、そもそもライトノベルをどう定義するかとかという話を始めるとまた本文到達前の脱落者を増やしてしまいかねないのでそろそろ無理矢理感想文に突入することにしよう。読んだ順に、『聖の青春』『弱キャラ友崎くん』『ようこそ実力至上主義の教室へ』『千歳くんはラムネ瓶のなか』『Lost in Math』『カラマーゾフの兄弟』について書き綴っていこう。ところで読書感想文である以上ある程度のネタバレは避けられないので、そんなに内容のトリックや人物関係に踏み込んで書こうと思っている訳ではないが、一応注意していただきたい。

聖の青春

聖の青春 (角川文庫)

聖の青春 (角川文庫)

聖の読み方は「さとし」である。ロックダウンに辟易として遂に読書でもするかと言ってイギリスで電子書籍しかアテがないので登録した Kindle Unlimited で見つけた作品である。もしかしたら順序が逆でこの作品を読むために、ついでに他の作品にも食指が動くといいなと思って登録したのだったかもしれないが、結局これ以外にはタダで読めるというので恋愛工学本を少し読んで冷笑していた以外の記憶はなくすぐに解約してしまったので、素直にこの本だけ買うべきだっただろう。そして今まさに解約してしまった以上この本をパラパラと見返せないことに気付いていきなり感想文が書けるのか雲行きが怪しくなってきている。そもそも電子書籍である以上あってもパラパラと見返すという表現は正しくないし、そしてそれができないことは一般に電子書籍の非常に悪い点であると思うのだが、ここではその向きには深入りしないでおこう。

これは若くして亡くなった棋士村山聖の生涯を描いた伝記的なノンフィクション小説であり、聖と懇意にしていた当時の将棋連盟の記者・大崎善生が手がけたものである。

印象的な冒頭では、幼い聖が兄達と山に出かけた先でマムシに対峙する。兄が投げた石に胴体を千切られながらも動くマムシを尻目に聖たちは下山するが、その夜聖は高熱を出してしまう。兄にはマムシの祟りかに思われたが、聖はそれから高熱を繰り返すようになり、ついには腎ネフローゼという恐ろしい病気であるという診断が下される。

元気の有り余った年頃の少年である聖にとって安静にしているというのは難しく、家にいるとすぐに無理して体調を崩し入退院を繰り返す生活になる。そんな時、入院中の聖に父親が買い与えたのが将棋盤と駒であった。聖は類を見ない没頭を見せ、将棋の本を読み終えては母親に新しい将棋の本を買ってきて貰うようせがみ、母親は本屋で直感を頼りに息子に良さそうな将棋本を探すのであった。医者に「たいへんな病気にさせてしまいましたねえ」と言われた母親が少しでもと息子の為に奔走する描写は切ない。

動けない身体ながらも天分を遺憾無く発揮し力を付けていった聖少年は、中学一年生の頃両親にプロ棋士になりたいという思いを打ち明ける。当時プロ界で若手ながら頭角を表していた谷川を倒すのが目標であった。無事奨励会(『ヒカルの碁』で囲碁版のものがお馴染みだろう。プロ棋士の卵が入るところである)の試験に合格するのだが、「大人の事情」によって一年間待たされることになってしまう。そこで「谷川を倒さなあかんのに僕には時間がないんや」と理不尽に怒り悲しむ聖少年は自分の人生がそう長くはないであろうということをこの時点で既に悟っているのである。これは学校に通えなくなり移った先の療養所で「隣のベッドの子が翌日にはいなくなっている」という経験をしている聖少年にとって切実に浮かんでくる恐怖であり焦りだったのだろう。コロナに世界が揺り動かされている今であってすら私には想像もつかない。

一年後に無事奨励会入りした聖は何度も病気の悪化で対局を中断しながらであるにも関わらず記録的な早さでプロ入りを決める。その後同世代の羽生や目標としていた谷川と順位戦やタイトル戦で争うこともあり、羽生世代の将棋界を大きく盛り上げた。結局名人になることは叶わず29で夭逝してしまうのだが、その生き様は多くの人に影響を与えたのである。

感想を一つに絞るとするならば、聖の将棋に対する感情は必ずしも肯定的なものばかりではなかったという点だろうか。人生を将棋に捧げつつも、将棋がたかが《ゲーム》であるという視点も持ち合わせており、そのゲームで暮らしている十代の頃から既に葛藤があった。また自分は長くは生きられないということもあり「名人になって早く将棋を辞めたい」という発言をしている。詳細な描写が今確認できないのが非常にもどかしいのだが、聖が人生をかけて表現し作者が綴った聖の将棋に対する熱量のある思いは、決して綺麗なものばかりではない泥のような感情は、強烈な印象として私の中に残っている。村山聖は決して御伽噺の中の天才ではなく、非常に負けず嫌いで、子供っぽく、それでいて愛される将棋界の怪童であった。人生を将棋に捧げ、その命の青く燃える軌跡が、その熱に打たれた一人の実感を以って描かれている名作である。

弱キャラ友崎くん

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重いノンフィクション作品から打って変わってオタクっぽい表紙の作品を三本続けてお届けする。リンクが Amazon ではなく ebookjapan になっているのは普段は電子書籍をこのサイトで購入しているということである。海外から電子書籍を購入する際は地域制限によって開けなかったりすることがあるので利用するサービスには注意が必要である。

さてラノベ一本目のこの作品は現在1巻〜9巻に加え6.5巻と8.5巻の合わせて11冊が刊行されており(ご存知のことと思うがライトノベル作品ではn/2巻として番外編であったり短編集が刊行されるのが通例である)、私は冬に放送されていたアニメにハマりその続きとなる4巻以降の8冊を読んだ。まだ完結している訳ではないが、アニメ版と併せての感想を述べることにしよう。

ジャンルとしては「陰キャ成り上がりもの」(陰成では気味が悪いので院生と表記することにする)であり、私はこの作品で初めて出会ったのだが最近はそういった作品が流行りの一つらしい。少なくとも『このライトノベルがすごい』ランキングで見かける院生作品の中では最古参なのでラノベ界隈ではこれが院生の先駆けなのではなかろうか。ところでこの作品ではキャラの接頭辞に陰・陽ではなく弱・強が使われている。露骨さを避けると共に主人公の趣味である格ゲーとの親和性を持たせる為であろう。

あらすじはこうである。覇権格ゲー『アタックファミリーズ』通称アタファミ(つまりスマブラである)のオンラインレーティング日本一の高校生である主人公・友崎文也はある日、レーティング No.2 のプレイヤーとオンラインでマッチする。その対戦に勝利すると「一度会ってみませんか」とのメッセージが届き、了承した友也が待ち合わせ場所に行くとそこで待っていたのはクラスメイトの完璧美少女・日南葵だった。葵は尊敬する No.1 アタファミプレイヤーが現実においては人生を諦めたうだつの上がらない上がらない《弱キャラ》であることに憤慨し、努力して努力して《強キャラ》になった自分の過去から、友也を変えてやろうと持ちかける。「人生なんてクソゲーだ」と言う友也も、葵が「人生はアタファミと同じくらい神ゲーよ」と言うのに心を打たれその計画に乗り、様々な努力をして徐々に友達を獲得し、徐々に成長し、周りも少しずつ影響されていく——。

とそのまま書いてみたものの非常に陳腐で目も当てられない感じになってしまった。私が最初にこのあらすじを読んでいたら間違いなくアニメを見ることはなかっただろう。しかしこの作品はきちんと面白いのだということを伝えなければならない。一つにはスクールカーストの構造的な描写がある。勿論人間関係の機微を描く文学作品において登場人物たちの精神的な力関係が描かれるのは珍しくはないだろうが、ここでは人に目を向けてこなかった主人公が成長の過程で持ち前のゲーマースキルを使って自分のクラスの人間関係を分析、どのタイミングで誰を動かすと(葵から課された)課題完遂に効果的か、などを考えるシーンがある。当然私の中高時代もいじめこそ殆ど無かったもののやはりクラスは発言権を持つ人間と持たざる人間に明確ではないにせよ分かれており、あるいは仲の良い友達もいれば自分が入りにくいグループもあった訳である。部活・塾・クラスなど生徒たちは多様な繋がりの中で大なり小なり空気を読んで生きていた。大学に入って人間関係が非常に限定化されてからは意識の外にあったが、そういえば中高の頃もあまり構造的に捉えたことはなかったかもしれないな、と思わされた。

とは言えこの作品の真髄はそういう技術的なところであるというよりもむしろ諦めていた人生を自分の足で歩き始めた主人公に対して緩やかに提示される矛盾である。当然ながら、話し方の澱みを除き、見た目を整え、面白い話題をストックし強キャラとして振る舞えば次第に友人は獲得されていく訳である。しかし、それは嘘にはならないのか?その友人が惹かれているのは本当に自分なのか?そうして作り上げた自分を好きになってくれた人がいたとしても、またノルマを掲げてその人と恋仲になる《ゲーム》をプレイしていて本当に良いのだろうか?当然の疑問である。そして主人公は盲目的に従っていた先生である葵と初めて衝突する。

ここまでの内容が一息にアニメ版(つまり原作の最初の3冊)に詰まっている。その先の原作ではこの抽象的な問題が主人公たちの中で一定の解決を見せた上でより具体的な、キャラクターの過去に関わるような問題が浮上していき、かなり核心に迫ったのが最新刊である9巻である。ネタバレにならない範囲で(特に避ける意味もないのだろうが)一つ面白いのは、文也が唯の弱キャラではなく曲がりなりにもアタファミ日本一のプレイヤーで、良くも悪くもゲーマーであることが明らかになっていくところである。そういう人間が何か一つ大きな目標を定めた時、良く言えば脇目も振らず、悪く言えば周りに無関心になるのだ。私は毎日起きてから寝るまで数オリの問題のことしか考えていなかった高2のあの狂気の半年間を思い出し、主人公に勝手に重ねている(お前もうすぐ25やからな)。そしてまた10巻以降で明らかにされるであろう葵の抱える《空っぽな向上心》の裏側にも期待したい。

ところでこのラノベで登場する院生ものの精神的矛盾はそのまま我々が恋愛工学と呼ばれるものに抱く一般的な嫌悪と程度の差はあれ同じものだろう。(男性向けの)恋愛工学は、これは Kindle Unlimited で手に入れた無限の知識の一端であるが、女性側の理想とする男性像を説き、院生作品にも共通するような基本的な台詞回しから、ともすれば犯罪行為になりかねない強引な行動の重要性まで解説している。私の見解はあまり述べないでおくが、これはやはり効果的なのである。身近にも例えばそれまで非常に奥手だった青年が恋愛工学塾に行って圧倒的に変わった実例を知っている。そして——、特に結論もないのに同型性だけ指摘してしまったことを後悔している。数学者かな?

ようこそ実力至上主義の教室へ

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言わずと知れた「よう実」である。もし『月と六ペンス』は聞いたことがあるけどよう実は知らないと言うのだったら自身の教養の無さを恥じた方がいい。重要な取引先の接待の場で「ここ2年連続で『このライトノベルがすごい!』web アンケートで1位を獲得している作品は何か?」と聞かれた場合に『ようこそ実力至上主義の教室へ』であると答えられなければ数億の契約を落としてしまうかもしれないのだ。

このライトノベルがすごい!』は宝島社が毎年発行しているライトノベルのランキング及びそれを網羅するガイドブックであり、近年の投票システムは協力者(作家や評論家など仕事を手がける人間・大手の大学サークル・ラノベ情報発信者)による投票と間口を絞らない web サイトでの投票の加重平均で決定されている。その後者の web 投票でここ二年連続して一位に輝いているのがよう実であるという訳だ。総合ランキングを見れば分かる通りよう実は協力者アンケートで票を集める玄人好みの作品ということではなさそうであるのと、2010年台のラノベ史を通じて4作品が殿堂入り(俺ガイル・SAO・禁書・りゅうおう)している為これらは最新のランキングでは除外されているということに注意されたい。まあ、全部数ヶ月前に知ったことなのだが。

ランキングは置いておいてよう実自身とは私は2017年にアニメ版において出会っている。その時もバカテスのパクリなかなか面白い設定だと思いアニメは楽しんだのだが、原作を購入するには至らなかった。一つには原作がラノベだったこと(自然派だったその頃の自分は電子書籍を買うという発想がなくジャンプも紙で買っていた訳だが、ラノベが部屋の本棚に並んでいる光景には抵抗があっただろうと思う)ともう一つは奨学金を貰っている訳ではなかったのでそもそもそういった作品を購入するという発想がなかったことが挙げられる。

そろそろ黙って作品自体の話をしよう。アニメの内容を殆ど忘れていたのと「アニメ版の改変が酷い」という噂を聞きつけたので今回は原作を1巻から全て購入したのだが、既に番外編を含めて18冊が出ており、最新巻は2年生編の4冊目である。学年が出ていたり「教室」なんて言葉が使われているのだからお察しの通りこれも主人公は高校生であり、物語は彼らが高度育成高等学校という全寮制の特殊な高校に入学するところから始まる。とは言えあらすじを書くとあまりに最初からネタバレになるので控えておくが要は学園抗争もの、それもクラス単位・個人単位が学園の提供したルールの下に智略を巡らせ争うというものである。例えばハリー・ポッターでも4つの寮があってクラス対抗の図式がいくらか出来ている訳だが、あの毛色がもう少し強い。

基本的に毎巻クラスや個人の進退をかけた学園主催の《特別試験》を中心に据えており、毎度どうやって難局を主人公やクラスメイトが乗り越えるのか、場合によっては他クラスと手を組んでどう立ち回るのかという知的バトルが中心になり、途上では読者に全てが開示されず予想外の結末を迎えることもままあるというミステリー要素もある作品になっている。謎解き作品では自然なトリックを据えるのに苦しんでいる作家が多いだろうが、この作品では学校側が生徒の教育のため公式に(主に知的な)ややこしいルールの試験の場を設けるという開き直った設定ゆえより、逆に登場人物間の頭脳勝負自体にはスッと入っていけるようになっている。勿論中二病的なまさにオタクっぽい作品であることは否定しないが、毎巻テーマとなる試験とは別に(主人公も含めて)誰か登場キャラクターの過去が掘り下げられることが多く、多少現実離れはしているものの、多くのキャラクターの相互作用がミステリーの根幹に関わっており非常に興味深い作品である。

一般に文学作品の基本になっているのは主人公が周囲との相互作用で成長していく様子の描出であろうが、この作品では長いシリーズを通してそういった個の成長がいくつも入念に描かれている一方で、クラスとしての成長、つまり入学時は落ちこぼれが集められ向上が不可能かに思えたチームが失敗を重ねながらも難題を乗り越えていくというところにもカタルシスがある。

ミステリー成分は巻によってヒントが全て提示されていたり後出しだったり作者は推理小説としての体を取っている訳ではなさそうだが、やはり読者側からトリックを推測するのも(得てして主人公引いては作者の方が何枚も上手なのだが)なかなか楽しい作品になっている。私のお気に入りは10巻である。ここでは展開の予想を大外しして悔しかったのだが謎解き要素としては最も面白い《特別試験》であった。2年生編に入ってからはまだ私も新入生として増えた登場人物達が漸く掘り下げられ始めたばかりでうまく把握しきれていない感があるので、続刊に期待したい。

千歳くんはラムネ瓶のなか

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先述の『このライトノベルがすごい!』2021年版で1位を取った作品である。大衆投票の web アンケートではよう実が1位だったので裏を返すと《業界》に非常に強く支持された作品がこれだったという訳である。私がこの作品を手に取ったのは単にそこで見つけたというのが理由であるから、一般読者ではなく業界人に支持されることの重要性が窺い知れる。一般読者はアニメ化などメディアミックスした作品をより強く支持する傾向にあるだろうから(文化あるところには常に逆張りの霊脈が息づいているだろうが、それでも)名作の可能性を秘めた駆け出しの作品を拾い上げるという意味で「協力者票」という制度は一定の役割を果たしているのだろう。

息の長いよう実とは対照的にこの作品はまだ5巻までしか発売されていない。皆さんには関係のないことだが、私が4巻まで読み終えたちょうどその翌日に5巻が発売されたので何か運命のようなものを感じた。うんうん、良かったね。今ではこのシリーズになかなかどうしてハマってしまっているのだが、1巻を読んだ時は巷の評価の割にあまり面白いとは思わなかった。

このシリーズの主人公・千歳朔は流行りの院生作品とは打って変わって正真正銘クラスの中心人物であり、モテモテでイケイケの高校2年生である。1巻はそんな千歳が担任に頼まれて不登校の少年を半ば強引に立ち直らせる別視点からの《院生物》である。その設定は新しく目を引くものではあるとはいえ、ここでは陽キャは文化に理解が浅いだの持たざる者の気持ちがわからないだののオタク側からのステレオタイプが真っ向から否定され、1巻だけ読むとオタクの自罰的嗜好が表出した気持ち悪い作品なのかなという向きがあるのは否めない。ライトノベルの割には(といってもそのような括りは精神的なものでしかなく文芸界においてどの文脈を汲んでいるのかは作者に聞くべきことなのであろうが)やたらと情景描写が多く、擬音が多用され最初は不必要に詩的にすら感じた。実際私は1巻を読んだ後続きを買うかかなり迷ったのだが、何故この作品がそれほど評価されるのかが気になり続きを読むことにしたのである。

しかし1巻でしつこいまでに描かれた《陰・陽》の対立軸はそれ以降の巻では慣れなのか自然な程度に抑えられたのか感じられず、2巻以降は主要人物の掘り下げが始まり少し拗れた青春譚に突入する。要は1巻は「千歳グループ」の雰囲気を外の視点も交えながら描き出そうという起点だったのと言うことだろう。1巻を絶賛している読み手も多数いるので一概には言えないが商業的・作品的な新しさを強調した結果でもあると思う。1巻で基本的には完璧な《ヒーロー》を演じ切った朔だったが、その自己犠牲を伴う美学の脆さを《お姉さん》にも指摘され明らかになる朔自身の矛盾と葛藤が作品全体を通しての一つの軸になっている。

当然のことながら内的なものばかりではなく、朔の成長は複数人いるヒロインとの具体的な関わりを通じて描出されるのだが、ミステリーの2巻、《お姉さん》との冒険の3巻、部活ものの4巻とどの巻にも違った趣がある。朔にも乗り越えなければならない過去があり、一歩ずつの成長は同じヒロインの助けによって為されるものではなくそれぞれ独自の向き合い方によるものなのである。そうなってくると冗長なものに思えた詩的な表現も各場面で作品に的確な彩りを与えており、朔の内面の揺らぎをよく反映していることが見えてくる。最新5巻では人間関係が大きく動き始め、息をもつかせぬ展開に私も一気に読み終えた。

さて少し舞台の話に移るとこの作品は非常に地元愛の強いものになっており、主人公達が通う藤志高校は作者の母校である福井県立藤島高校がモデルである。藤島は福井一の進学校であり、勿論東大に出身者の知り合いもいれば、私が高校の頃参加した近畿総合文化祭(総体の対概念である)囲碁部門で藤島高校の選手と対局し、感想戦で検討相手の先輩である全国屈指の選手の読みを聞いて感銘を受けたことも思い出される。公立の超進学校というとやはり地元に馴染んだ存在なのだろう。福井駅から徒歩30分に位置する彼らの学校生活は、やはり福井という都市の中心地で繰り広げられる。彼らにとっては全てであるその福井も、進路というお決まりのきっかけではあるが《東京》と強く対比され、何か窮屈なものに感じられてくる。学力的には東大や早慶も十分狙える彼らにとって、命題は「福井に残るか、東京に行くか」ということなのである。勿論この二項対立は形は変われど地方都市の若者に必出のものなのだが、この作品では何でもできるようでいて非常の狭い世界で生きている彼らの生活が街並みも含めてありありと描かれており、その上で《東京》と向き合う3巻は小さな冒険譚である。

私は自分の将来についてそういう悩みを抱えたことがあるだろうか。精々のところ進学振り分けが最も大きい決断だったのではないか。誰かに、例えば既に自分の中で固まっている意見が猛烈な反対を受けないか確かめる以外の意図で、自分の将来について相談したことがあるだろうか。今いる居心地の良い空間を自然に降りてくる自分の道と天秤にかけた時、少しでも針が揺れたことがあるだろうか。多分あるのだろう、少しくらいは。けれどもう忘れてしまったその青春の葛藤は何色に塗られるのか、見届けられればと思う。

Lost in Math

ラノベの山を越えて迎えるはまた少し《真面目》なお話。かっこいいので Lost in Math と英語表記しているが私が読んだのは長ったらしいタイトルの邦訳版である。なろう小説かな?訳者本人のツイートか何かが2月頃目に入っていかにも自分好みそうな内容なので読もうと思ったのだが、発売日のカレンダーに「本」とだけ予定を入れていたものの直前になって何の予定か分からず思い出すのに苦労したものである。結局自分用 Slack の適当なチャンネルにリンクが貼ってあった。

どういう作品だろうか?実は本の分厚さに比して内容は至ってシンプルである。この作者は量子重力理論などを専門とする理論物理学者なのだが、彼女はその界隈ではブロガーとして有名な人物であるらしい。彼女が綴ったのは結局のところ実験によって確認されなければならない基礎物理学理論(ここで指すのは主に素粒子物理学であると捉えて貰えばよい)において、ここ30年全くと言っていいほど進展が存在しないという閉塞感である。これは物理の特に還元主義的(リダクショニズム:より小さいスケールのシンプルな構成要素によって現象を説明しようという姿勢)な側面では広く共有された認識であろう。物理の基礎が止まっているというのは例えばアメリカで長年人気を博したドラマ『ビッグバン・セオリー』でもコミカルながら言及されている。とはいえ、以前も書いたように私は物理には全く明るくないが、例えば量子コンピュータのような応用的なところであったり《トポロジカル》が耳に新しい物性分野においてはまだまだ発展著しいのではないかと思う。また一つ付け加えると、ここ数年でニュースを騒がせたヒッグス粒子重力波も理論的には半世紀以上前の予言になっている。ヒッグスは1964年だし重力波アインシュタインまで遡る。

それほど長く続く基礎理論の窮状において何故今更そんな本が書かれているのかというと《最先端の理論》によれば観測されるはずのことが実証されてこなかったからである。物理学者たちは70年代には現在知られている25種類の粒子からなる《標準模型》を完成させ、それは重力や暗黒物質などいくつかの問題を除いて、場の量子論が記述する物理学を非常によく再現してきた。標準模型で予測された粒子はヒッグス粒子を除いて全て20世紀に確認されていたが、とうとう最後の一つも CERN(欧州原子核研究機構:シュタゲでお馴染みの悪の組織である)の LHC(Large Hadron Collider:めっちゃデカい加速器である)で観測された。合意がとれたのは2013年のことである。では順調ではないかと思うかもしれないのだが、既に述べた通り70年代の理論が漸く確認されたというだけで、最先端の理論とは標準模型のことではない。その理論、《超対称性理論》が正しければ、この LHC の取り扱うエネルギースケールで既存の標準模型の各(ボーズ・フェルミ)粒子に対応する《超対称性粒子》がどれか見つかるはずだと物理学者は信じていたのである。結局ここまで標準模型を超える超対称性の兆候は LHC では見つからず、彼らが約束された理論だと考えていた超対称性理論は机上の空論の疑いをかけられ始めているという訳である。

しかし何十年も実験ができないところにどうして理論が作れてきたのか?数学をやっている人間の立場から考えるに、そもそも科学理論とは結局最終的には経験的なものでしかない。例えば物理学に数学が何故これほどまで使われており、そして(少なくとも前世紀までは)上手くいっていたかというのは決して自明の理ではない。何故か、数学的な美しさや対称性を元に理論を構築すると、うまく実験結果が説明可能だったという、その偶然以上の意味を見出すのは些か乱暴であろう。そして同時に、実験結果によって否定されてきた「自然な」理論も星の数ほどあるということを忘れてはいけない。それは古くには天動説であり、より最近にはエーテル説であったし、そもそも原子論なんて「不自然な」理論が受け入れられたのもアインシュタイン《奇跡の年》以降の話である。

さて、実験が出来なくなって久しいのに《理論物理学》はどうやって進んでいるのか?本当に進んでいるのか?作者はこういった疑問から数々の高名な学者にインタビューを重ねるうちに、最先端の基礎物理で行われていることは結局のところ《美しさ》の妄信でしかないという確信を強めていく。美しさとは何か。シンプルであること。自然であること。そしてエレガントであること。標準模型がシンプルであるかということもそもそも議論の対象であろうが、例えば超対称性理論があまりに広く受け入れられた背景には、最後のエレガントさが大きい。超対称性は《階層性問題》という標準模型の問題点(2つの定数が不自然に近過ぎること)に対する一つの回答を与えるモデルだったのだが、それとは別に90年代に超対称性を導入したモデルでは3つのゲージ群の《結合定数》が綺麗に一致するということが示され、それにより多くの物理学者たちは超対称性理論が正しいものだと確信した。筆者はこう書いている。

ゲージ結合定数の統一は必要だろうか? ノー。それは美しいだろうか? 確かに美しい。

しかし前世紀において数学的な「自然さ」は物理学の良いガイドとなり、それにより数多の新事実が解明されてきたというのもまた事実である。作者はコミュニティの閉塞感から「物理学者というコミュニティが皆で『美』に囚われて方針を間違えた」という安易な結論に辿り着きたいだけなのかもしれないと自省している。

作者は Lost in Math と名付けた一節で三つの《教訓》を与える。

ある問題を数学で解決したいなら、まずそれがほんとうに問題であることを確かめろ。

近過ぎる2つの数、宇宙項の小ささは本当に《問題》なのか?物理学の発展は常に目に見える形での《矛盾》と共にあったのではないか?

仮定を明言せよ。

自然さ、単純さを《原理》として据えているのであれば物理学者はそれに自覚的でなければならない。

観測事実による導きが必要だ。

結局、最後のところは実験で確かめるしかない、ということである。さて、これは尤もなのであるが、実験が出来ないから困っているのに、実験をしろというのはどういうことなのだろうか。理論を辞めろということではないだろう。理論と実験の乖離にコミュニティが真剣に向き合うべきだということだろうか。

最後に、回答を与える能力に長け過ぎてしまった理論物理学者たちの狂気の一端を垣間見てこの項を締めようと思う。

超対称性粒子を未だ見つけられていない LHC での実験だが、2015年末に CERN はある標準模型からのずれを観測したことを報告する。この現象は《二光子アノマリー》と名付けられたのだが、この現象は再現しないということで8ヶ月後には統計的ゆらぎに過ぎなかったと結論づけられる。さて、その間にこの《ゆらぎ》に関して執筆された論文はなんと800本、さらに驚きなのはその間に300回以上引用された論文もあるということだ。素粒子理論のスピード感と、そして唯の《ゆらぎ》に対する異常なまでの適応能力が垣間見られただろうか。

突き詰めれば経験的な領域でしかないはずの物理学に美しさが持ち出され、全てを説明する最早確かめようもない《理論》が次から次へと考え出されていく様子は狂騒と呼ぶに相応しい。しかし、嗚呼哀しいかな、そんな天才達の悲哀にどこか満足感を覚えてしまう自分がいる。数学は言語であり、そこに《意味》などない。ほら見ろよ、万物の理論を志して唯の数字にさえそんなものを求めた奴らがどうなったか。人類の壮大な営みを冷笑してしまう私はどうしようもなく間違っているのだろう。

カラマーゾフの兄弟

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漸くここまで辿り着いた。そもそもこの作品を読み終えたから感想文を書こうと思い立ったのであり、記事冒頭の「ついさっき」は20時間前のことである。読んだ側も(仮にくまなく目を通しているならばであるが)お腹いっぱいになっているだろうし、こっちはその比ではない。こういうのを自業自得という。Lost in Math はネタバレという概念もあまりないと思いかなり内容に踏み込んで書いたが、こちらについては出来るだけストーリーの仔細には立ち入らぬよう努めることにしようか。

そもそもどうしてこのタイミングでカラマーゾフの兄弟を読んだかであるが、先にも書いた通り、自分で何かを書く心の準備ができていなかったからであり、その自らの弱き心の叫びに耳を傾けた際には重ねて自分が小説と呼ばれるものを久しく読んでおらず、少々の例外を除けば小学校時代の児童文学まで遡る羽目になってしまうだろうという恥ずべき至らなさに気が付かされてしまったからである。そこでライトノベルで味をしめていた私は何か手軽にこの凡夫にやり直しの機会を与えてくれるであろう小説版における『このライトノベルがすごい!』を探したという次第である。こういう風に書くと世界のどこかで怒られが生じて小説という高尚なものについてライトノベルと同列どころかそれよりも軽い扱いを与えているのではないかと誤解をさせるかもしれないので釈明を加えさせていただきたいのだが、一つの点としては必ずしも歴史の通りに人が動くとは限らないということがあり、また一つの点としては世には一つとして価値の不変なものなどなく、あのユークリッドの時代から長らく受け入れられてきた平行線公準さえもこの宇宙では成り立たないとアインシュタインが指摘してみせたように、またライトノベルが世の基準となることも、想像するよりもずっと近い未来のうちの話として、ありうるということを述べておかなければならない。

さて、少し言葉遊びが過ぎてしまったが、そうして私はサマーセット・モームの『世界の十大小説』というエッセイがあることを知る。そこには『戦争と平和』『ボヴァリー夫人』『白鯨』など名を知らぬ者はないような小説が並んでいる(とはいえそのうち聞いたことのない小説もあったということは正直に告白しておくべきだろう)ではないか。高校の頃4分冊のうち2冊目あたりにして話が遅々として進まないことに苛立ち読み切ることのできなかった『デイヴィッド・コパフィールド』を読み直すことも少し考えはしたが、やはりここは文学史上の最高傑作とさえ言われる『カラマーゾフの兄弟』を読むのが正道であろうと思い、早速読み始めた訳である。

そうやってこの作品を手に取ったのが五日前の正午過ぎであり、そもそも軽い小説ばかり読んでいた自分は三冊に分かれているとはいえその日中に読み終わるのではないかと高を括っていたのであるが、結局蓋を開けてみればこのブログの執筆と併せて今週はほとんど研究をお休みすることになってしまった。よう実は一日に5冊も6冊も読める自分にとって何が他の軽いノベルたちと違うのかというと、一つは文字の密度であり、フォントも大きく階段落を多用しテンポを重視するライトノベルに比べた場合には一つのセリフでさえ何ページと続き改行なんてものを少しでも期待する方が間違っているといった書き様のドストエフスキーの1ページはあまりにも長い。あるいは気を抜いているとすぐに話が複雑な小道に入り込んでしまう彼の文章というのはそもそもにして一文字あたりの難解さをそなえ、それも曲がりなりにも農奴制の最終期に貴族階級の家庭で生まれ育った彼の紡ぎ出す文章であるから相応の教養を要求するものであるというのは彼が世界最高の文豪であると取り沙汰するまでもなく明らかなことかもしれない。

ここから先は他の作品の感想とは異なり何回も消したり書いたりを繰り返しており(この作品の感想に入ってからもう3時間が経つのだが)いつまで経ってもまともな終わりは迎えそうにもないので無理矢理二、三の点について言及して結ぶことにしよう。私の普段の冷笑的態度を改めない限りこの作品と真に誠実に向き合おうとし続けた暁にはついぞ発狂してしまうことだろう。

一つは『大審問官』のエピソードである。カトリックの中高で育ったため聖書のエピソードやカトリックの基本的な考え方は普通の人よりは知っているつもりだが、恥ずかしながらカトリックプロテスタントの対比以前に分化した正教会への理解は非常に浅い。しかし、どうやらロシア正教から見てカトリック教皇主義的な側面は非常に邪なものとして捉えられていたようだ。そして、西欧的《進歩的思想》の兄・イワンは主人公・アリョーシャに対してカトリックの「いちばんわるい部分」である異端審問に対する弁護を雄大な作中作と共に与える。私は想像したこともなかったのだが、やはり正教が深く根付いたロシアに《外部》であるヨーロッパからから吹き込んできた自由主義の風に泳がされたイワンのようなインテリ層が何か壮大なリアリズムをこねくり回して《民衆》と乖離していく構造があったということだろう。少し調べるとドストエフスキー自身も『作家の日記』の中で「民衆との接触により神を取り戻した」という旨のことを言っているらしい。当人の父親が農奴反乱の高まりの中自領の百姓達に惨殺された経験なども関わっているだろう。しかし、これ以上は語りえぬことである。何故私に(それも一作品読んだだけで!)ドストエフスキーの思想を一口にまとめることが出来るだろう。この一歩引いた立場こそが彼が晩年批判した態度の一端にも思える。

再びイワン・カラマーゾフである。彼は更に上の兄や父の物質的な欲望に嫌悪を抱きながら、自分の中に流れる《カラマーゾフの血》についても(これはアリョーシャもであるが)認めている。特に印象的だったのは彼が前半に口走ったユークリッドの話もそうだが、後半において彼と対峙する《悪魔》が「ところがこの空間たるや、この大地の上空を充たしているエーテルの水中たるや、ひどい寒さでね……」という発言をする場面である。ここではどうやらイワンの内的な憎むべき《インテリ》が本人と戦う場面であり、イワンは何度も「哲学に走ったな!」「阿呆!」と罵る。悪魔が丁寧にエーテルについて言い直す場面は非常にインテリと物質主義を掛け合わせたような嫌悪感を覚える。またも私はこの問題について語る言葉をこれ以上持たないのだが、エーテル説といえば否定派が大きく前進したのが1887年のマイケルソン・モーリーの実験であり、この実験では《エーテルの風》の速度を測定しようとしたが失敗に終わったのだった。こういう視点で「遥か140年前」であることを思うとまた一つ面白い。ドストエフスキーの描き出す精神世界の精緻さと《進歩的》な西欧科学文明への疑念とは裏腹に、物理学が(もちろんマクスウェル方程式などは既にあった訳だが)劇的な発展を遂げるのはドストエフスキーの死後少し経ってからなのである。数学にしてもそうであり、素数定理が1896年、《ヒルベルト23の問題》が1900年、ルベーグの学位論文が1904年、そして勿論《アインシュタイン奇跡の年》が1905年……そしてその後二回の大戦である。ドストエフスキーはこの世界の未来が見えていただろうか。また彼がレイ・カーツワイルと話したら果たしてどうなったか。

文章がフラフラしてきた。二段落かけて変わり映えのしない内容の繰り返しだが、まだ感想を言語化する体力は無かったということだろう。結局5時間かけて自分の愚かさや高慢さと存分に向き合うことになった。これもまた得難い経験である。

さて、少し疲れた。そろそろ終わりにしよう。