ことば

ことばについていくつか書いてみる。

次に大きな数

聞き飽きた話題だという人もいるかもしれないが、11の次に大きな素数はなんだろうか?

私にとっては13である。「次に大きな」という言明では、ここでは素数という対象の《大きさ》による整列が行われる訳だが、素数全体を大きい方から整列するというのは無限性から不可能である。従って、素数全体の集合で《次》と言えば小さい方から数えるのが自然である。これは私の後付けの理由であり、答えは理由に先行する。これはもちろん私の感覚でしかないのだが、例えば同様の問題を取り扱った次のブログに私と同じ側の用例が集められている。

kumiyama-memo.hatenablog.com

勿論、富士山の次に高い山は北岳であるし、霞ヶ浦の次に大きな湖はサロマ湖である。では「11の次に小さな素数は?」と聞かれたら何と答えるだろうか。この場合もやはり13と答えるだろう。これらは全て《整列》という観点で正当化可能である。整列方法が二通り以上ある場合はどうだろうか。例えば「1から5の中で、3の次に大きな数は?」という問いである。「1から5」だと「4」と答えそうだが、母集団がもう少し複雑になると3より小さい数のうち最大のものを答えそうだ。《整列》にどのくらい疑問の余地がないかが関わってくるように思える。

同様の話題についての私とは異なる側の主張として、「A の次に大きな」ものとして A よりも大きなものを答えるのはただ数学が苦手なだけではないのかという指摘を見たことがある。確かに、大きい順に並べることが(前に無数にものが続くことになっても)常に可能であるという立場であれば、《自然さ》を排して論理的に思考できていないだけだという主張にも一定の真実があるかもしれない。

しかし、そもそも「次に大きな」という表現の「大きな」は「大きさ」だけではなく「大きい」という指向性を含んでいるのだろうか。連体詞を用いる表現ではなく「次に大きい」というものについても調べるべきだろう。一貫性のために「次に大きな」を用いてきたが、少なくとも私にとってこれらに意味上の違いはさほどないように思える。さて、それを調べるため、いくつかの表現について Google で完全一致検索を行った結果が次である。

  • の次に大きな:約 5,330,000 件
  • の次に小さな:約 208,000 件
  • の次に大きい:約 1,280,000 件
  • の次に小さい:約 550,000 件
  • 次に大きな:約 36,600,000 件
  • 次に小さな:約 8,840,000 件
  • 次に大きい:約 4,250,000 件
  • 次に小さい:約 4,480,000 件
  • 大きな:約 603,000,000 件
  • 小さな:約 337,000,000 件
  • 大きい:約 344,000,000 件
  • 小さい:約 267,000,000 件

さて、連体詞と形容詞の連体形でかなり事情が違うらしい(高い・低いについても同様に調べてみたが、「大きな」が連体詞であることに特殊性があるのではないかと思えてくる)。注目すべきは、「次に」が付与された途端に「大きな」の優位性が跳ね上がることであろうか。これは私の考えている

  • 「次に大きな」という表現では、「大きな」は向きを持たずにただ「大きさ」のみを意味する場合もある

という考えを支持する結果であるように思われる。より踏み込んだ議論についてはそういうのが好きな人に任せることにして、次の話題に移ろう。

言語ゲーム

ウィトゲンシュタインは、やはり哲学者の中でも際立った存在であるように思う。どのあたりが異質かというと、私でも名前と生きた時代を知っているというところである。他に20世紀に活躍した哲学者を挙げろと言われるとラッセルとホワイトヘッドしか自信を持って出てこないが、彼らは哲学者であるというよりは数学者という流れでしか認識していない。ゲーデルもその枠組みに入るのだろうか。20世紀の哲学・思想史というページ(http://zip2000.server-shared.com/philosophy.htm)があったのでザッと眺めると名前を聞いたことのある人が沢山いた。言われて分かるのと自分から出てくるのは全然違うとはいえ、もう少し時代感覚を身につけた方がいいような気がしている。

もしウィトゲンシュタインという名前を知らなくても、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という言葉は聞いたことがあるのではないだろうか。これは前期ウィトゲンシュタインの《写像理論》の帰結である。これは、簡単に言うと、

  • 言語とは《私》の世界のモデルである
  • 世界は《事態》からなり、言語はそれを写しとる《命題》を与える(=写像
  • 《命題》は最小単位である《要素命題》に対して論理操作を反復して作られる
  • この《要素命題》は《私》の経験により限界付けられる

というものである。そして、《私》の経験によって限界付けられた《命題》によって写しとれない《事態》については何も語る事ができない。神や死、倫理がそういうものであろう。《私の世界》においてこれらのものについて語ることはナンセンスであるというのだ。なにか数学サイドでその頃の流行であった公理的集合論の影響を受けているようにも見える。私の曖昧な理解も彼は許してくれるだろう。「心配しなくていい、あなたがたが理解できないことは分かっている」

ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』でこの論を展開した後、哲学の問題はこれによって全て解決したと考え一度研究者を引退し小学校教師等として活動するのだが、約10年後に哲学の研究を再開する。後期ウィトゲンシュタインの研究は死後出版された『哲学探究』に結実し、そこで提示された《言語ゲーム》論は『論考』の行き過ぎた態度を書き直すものであった。

言語ゲームとはなんだろうか。ウィトゲンシュタインが与えた最も単純な例の一つが「台石ゲーム」である。建築現場で親方が「台石!」と叫ぶと助手は石材のストックから台石を選び、親方に渡す。この原初的な言語は「台石」「柱石」「石版」「梁石」の四つの語からなる。ここに文法など後から体系化された概念は登場せず、ただ親方が「台石」と言えばそれは助手が次にすべき動作を表しているのである。ここに建築の仕組みを知らない人が訪れると、親方が何を言っているかを完全には分からないであろう。これが《言語ゲーム》であり、言語の使用は常に暗黙のうちに共有されたルールに基づいて行われているというのである。ここでルールと書いたが、これは厳密に書き下せる類のものではなく、また境界も非常に曖昧なものであるということに注意が必要だろう。ウィトゲンシュタインは子供たちが野原でボール遊びをする時のふんわりとしたルールを例えに出している。

とはいえ、建築現場をしばらく眺めた人は「ははん、これは次に使う建材を宣言して持って来させているのだな」ということは汲み取れるであろう。これは言語使用者側の《生活形式》の一致及び言語ゲーム間の《家族的類似》として説明される。我々が何かを定義するとき、例えば「2」という数を二つのくるみを指差して定義するとき、それによって何を定めているのかが伝わるのは経験構造に共通性があるからであり、より一般に言語ゲームが成立するのは常に《生活形式》の一致に基づくということである。また《家族的類似》の概念は語やゲームが何か厳密な意味において共通性を持っている訳ではなく、沢山のゆるい類似性を持つに過ぎないということを主張する。

ここで提示されているウィトゲンシュタインの議論は終始曖昧なものに思える。そもそも《言語ゲーム》というのは結局のところ我々は何か決定的な定義や理解をそこに与えることができないのだという態度なのだから、むしろ非常に一貫性があるとも言えるだろう。本質の存在の否定は、言語の体系的な研究というのはあり得ないということを示唆しており、この点においては、独我論的な『論考』から彼の態度は変わっていない。

記述主義と規範主義

ウィトゲンシュタインのように「本質などない、言語の研究は不可能だ」と断じてしまうのは簡単だが、現実にはそうはいかないだろう。実際に言語は研究されており、その言語研究で現在取られている態度を記述主義(descriptivism)と呼ぶ。対立する概念である規範主義(prescriptivism)の方が親しみがあるだろう。これは「言語はどのように使われるべきか」を規定し、押し付ける態度である。政策や教育の範疇において広く採用されている姿勢で、従って我々の多くが内面化しているものでもあるだろう。マナー講師は規範主義で飯を食っている。彼ら彼女らが新しいマナーを作り出し、正しい敬語の使い方を独善的に定めるのは単にそれが仕事だからであろうが、規範主義には別の理由もある。

別の、あるいは規範主義の根本的なモチベーションは「変化を止めること」である。言語は絶えず変化する。特に Twitter 等で次々に新たなミームや言葉遣いが提案され受け入れていく様子は端的にいって草が生える。しかしながら、例えば日本という言語を共にするまとまりにおいて円滑に教育や行政を行うには言語は統一されている方が都合が良い。そもそも言語が曖昧であるから法解釈だのなんだの議論されるのに、変化のスピードを人工的に抑えないとなればあの種のものが存在意義を保つのは難しいであろう。

では記述主義とは何か。それは言語学における「正誤の判定をせず、ありのままを書き留める」という態度である。そもそも言語に正解も不正解もなく、今日使われている言葉は明日には死後かもしれない。今使うと誰にも通じない表現が、10年後には常用されているであろう。教育・テレビ番組で規範主義の雨に打たれた我々でもそうなのである。かつて地方によって、あるいは県や集落レベルにおいて方言の分化が止まらなかったのも頷ける。この様子を、あるいは規範的に言えば誤用であるものの発生を記述しその機序に迫らんとするのが現代における言語学である。

私は規範主義が嫌いである。言語とは本来流動的なもので、一つの《誤用》は仲間内で通じず誹りを受けるかもしれないが、誤用が多数なのであれば最早それが正しいのである。規範主義はただのお偉いさんの都合である。言語に正誤を定義する態度が間違っている。それでも、そう思いながらも、私は文法を気にしているし、耳馴染みのある単語でも文章にするときはいちいち意味を確認したりしている。私は社会的動物である。ああ、ムカつく。

おまけ

ω の次に大きな順序数は?