棄却

留学前に英語を勉強していた時だったか、naysayer という単語に出会った。「否定ばかりする人」という意味である。文脈によってはただ「反対派」という意味でも使うのかもしれないが、ここでは属人的な性質としての naysayer についての話である。私はこの単語を見てハッとした。残念ながら私がそうなのである。他人の意見については明確に否定しないよう心がけているつもりだが、特に一人で思考している場合には、ある指向性のある命題が提示されたなら、私はまずそれを否定することから考える。

多くの場合において、否定は肯定よりも簡単に示される。「A ならば B である」という主張が提示された時、A だが B ではない例をたった一つ探してこればいい。数学においてそれは表現形式の差異に過ぎないが、より曖昧な、経験的あるいは言語的な営みにおいては、発せられた主張はあらゆる反論に耐えなければならず、それは困難を極める。この段落の内容だって簡単に反証できる。

こう考える私は、アイディアを否定するのが得意である。自分が何か思い付いたらまずその粗を探し始める。否定するのが得意であることは、正しい道を見つけるのが得意であることに繋がってくる。ありうる道を全て否定して残るのが正しい道である。数学の問題は、正しい道を選択するまで適当に思い付いた方針を棄却し続ければ、いずれ解ける。誤ったアイディアの棄却が速やかに行われるならば、問題を解くのにかかる時間も遥かに短くなる。私が正しい道を選択する確率が正である限りにおいてこの主張は正しく、そして私はこの棄却能力こそが私の数学力の本質であると思っている。

しかし、自分のアイディアを棄却し続けるのはかなり苦しい営みである。数学の問題を考えている場合においてはこの苦しさは精々問題が解けた時の達成感のジャンプ台として、あるいはそもそも解けなさそうな問題に見切りをつけるためのバロメーターとして機能するのだが、もう少し抽象的な段階においてはそうはいかない。次にどんな研究をするか、どんな物語を創りたいか、お前は何をして生きたいのか。選択に消去法が強い効力を持ってきた私は、いざ無限の可能性を提示されると途方に暮れて進めなくなる。だったら選択肢を用意するしかない。既に世にある論文を読む。小説を読む。他の人の紡いだ物語の組合せから、私は消去法で次の道を決める。そうやって生きてきた。そこにあるものへの違和感を大切にして生きてきた。棄却した選択肢については考え尽くしていても、選んだ選択肢についてはあまり考えて来なかったんじゃないか? あるいは全てを棄却してしまったら?

私は強い言葉を使う人間に嫌悪を抱く。彼らは何も考えていない。私だったらそんな思い付きは棄却している。でも彼らは棄却しないだろう。彼らには自信がある。私は強い言葉を使う人間に憧れを抱く。