通過

オックスフォードからロンドンへの往復には電車とバスがありうるが、少々時間がかかるが直通で安いということで移動には Oxford Tube というバスを利用した。片道一時間半というのが時刻表の示す値だったが、往路には二時間かかった。復路がどうだったかは覚えていない。なぜ時間の話をしたのかというと、この時間を見越して iPad に小説をダウンロードしていったからである。

友人との会話の中で円城塔でも読んでみようかという気になったが、物理学者だという著者の略歴を見る中彼が早逝した伊藤計畫と交流が深くその遺稿を作品として引き継ぎ完成させていたことを知り、そういえば教養時代のクラスメイトにやたら早口で伊藤計畫について語る奴がいたなと怪訝な顔になり、結局その頃に映画化で話題だった『虐殺器官』を読んでみることにした。そもそも読書家でもないが、こと SF ということになると読んだ経験は殆どない。多分誰かに影響されて『アンドロイドは電気羊の夢を見ない』を駒場時代に買ったのは覚えているが、それくらいだ。そういえば結局スター・ウォーズも見てないな。

バスの往復で(往路は酔いと戦いながらだが)ゆっくりと『虐殺器官』の前半を読んだ。出だしこそグロさはあったが、タイトルから勝手に想像していた(あるいは映画化の頃に敬遠していた)ような過激さはなく、むしろ繊細で内省的な主人公には興味と共感を覚えた。しかし、翌日最後まで読み進めた時には、前日に私が抱いた高揚感はなく、結末も非常にありふれたものに思えてしまった。冗漫な物語を摂取することに慣れてしまった私にとって、物語の起承転結が 400 ページ程度で済んでしまうというのは物足りないということだろうか。自分はもっとダラダラしたのが好きなんだなと、そんな風に結論付けた。

さらに翌日、つまり月曜日であるが、イギリスはバンクホリデーと呼ばれる祝日である。この国には日本の半分しか祝日がないのだが、まあ毎日が祝日みたいな生活をしていると言えなくもないので文句は言わないでおこう。『虐殺器官』と世界観を共有する『ハーモニー』を読むかあるいはその映画を見るか考えていたのだがあまり気が乗らなかったので、円城塔に手を出してみることにした。

読んだのは単行本『これはペンです』である。この本は表題作と『良い夜を持っている』の二つの中編からなるのだが、なかなか二つの作品の趣は違って見えた。『これはペンです』は最高のエンターテイメントである。私は終始ニヤニヤしながら読んでいた。ある友人に言わせればこれは「我々」であり、別の友人が使うであろう言葉を前もって拝借するならば「きらら系」と言える。科学的な記述には(少々冗長に思えるくらい)丁寧な説明があり脱線することもままあるのだが、それはご愛嬌だろう。難解を謳われる円城塔の作品の中でも読みやすいことで評判なようだ。

そんな愛の溢れた『これはペンです』であるが、落選した芥川賞の講評(円城塔(えんじょう とう)-芥川賞受賞作家|芥川賞のすべて・のようなもの)を見てみると面白い。(別で歴代の受賞作に対する石原慎太郎のコメントだけ眺めてみるのも面白い。)私は芥川賞の基準を知らないので何とも言えないが、ふわふわとした意見を述べるならばこの賞にしては過度なエンターテイメントであるように思える。胸をかき混ぜてくることはなく、終始安心と微笑を与えてくれる。純文学の殿堂かと言われれば…いや、私は日本の文学について特に知らないな。これからは直近の芥川賞直木賞作品くらいは読もうかな、とそんな気にさせてくれる。自分の言葉数には時々嫌気が差してしまうな。面白かった。笑わせてもらった。

転じて『良い夜を持っている』であるが、『これはペンです』の意外性のない平坦な安心感とは対照的な、一気に駆け抜けていくような表現を持っていた。小説としてではなく、ということであればラマチャンドランの『脳の中の幽霊』を少し読んだことがあるが、物語としての、いや指向性のある《物語》とは少し異なるのだが、没入と高揚を与えてくれた。私は前半より遥かにこちらの方が好きであると思うと同時に、大きな印象としての「訳分からなさ」を拭いきれなかった。訳分からないから面白い。これは別に逆張りではないと思う。

一応は「訳分からない」という表現を選んでいるが、この難解さは決して理解が及ばないとか意味不明すぎて読み進められないといったものではないように思う。細部の組み立ては、それぞれのパーツはすんなりと入ってくる。しかし気がつくと辺鄙なところを迷い歩いている。私はどっちから来たのだろうか。そういう時、現代文の試験なら何度も前に振り返って読み直すのだが、小説を小説として愉しむとき私はそのまま進む。だってそうだろう。普段の会話だってそうだ。この文章だってそうだ。文字の羅列にはその流れがある。もちろん我々はその向きからは解放された高次の存在であるとも言えるが、私は自然派なのでね。

一冊の小説を読むのに、漫画を読むのに、私の数倍、下手したら十倍の時間を懸ける人達を知っている。なかなかどうしてそういう人は思慮深い。これは単なる認知バイアスで、私がその生態に興味を持っているという前提条件があるというだけなのかもしれないが。そういう劇的な違いを目の当たりにすると怖くなる。私は表層をなぞることばかり覚えてしまっている。私にとって、メディアとは、私の経験の櫛を通り過ぎていく流れである。そこには明確な指向性があり、一期一会である。気に入った作品を何度も見るということも殆どない。本がつまらなくて読むのをやめてしまうということも殆どない。

波に逆らえなくて流れるように嘘をついてしまった。アニメ作品に限って言えば気に入った作品を何度も見るということは殆どないかもしれないが、祖母の家に行けば『修羅の門』を読むし実家に帰れば『黒子のバスケ』を読み返す。小学校の頃は『ハリー・ポッター』を十周くらいしただろう。五周目くらいで漸く気付いた伏線もあった。四巻の末のダンブルドアの表情の描写である。これは映像媒体特有の、自分でスピードを制御できないものへの態度であるかもしれない。本がつまらなくて読むのをやめたことも幾らかはある。『デイビッド・コパフィールド』は長すぎて二分冊目くらいで投げたし、『吉里吉里人』もそうかもしれない。チャーチルの自伝なんてものの数十ページで読むのをやめた。確かホワイトヘッド哲学書は一ページ目で断念した。漉し取れないことも当然あるのだ。

しかしある程度何か糸くずが絡まってくれるならそれ以上全てを堰き止めてまで吸収しようということにはならない。結局のところ時間とのトレードオフで、それが楽しみ方であり忍耐であるということか。その点映画はいい。快適な椅子にどしりと構えて何かが琴線に触れるのを待てばいい。ジャズか何かをやっている先輩が「音楽って、人によってどの音を聞いているのかまるで違って面白いんだ」と言っていた。交流は櫛の形を変えるだろう。

読んだ作品に限って言えば、伊藤計畫よりも円城塔の方が私の好みである。前者に感じた失速は、物語への誠実さによるものだと今では思っている。『虐殺器官』は物語である。始まりがあり、歴史があり、主人公は変わり、そして世界も変わる。『これはペンです』は物語だろうか? 日常系を物語と呼ぶなら、きっとそうだろう。昔小説家入門サイトみたいなものをチラリと見ると「小説とは、主人公が他の人物との交流を通して成長する物語である」というような定義がなされていた。小説だったか物語だったかはここではあまり重要ではなく、要は《変化》が主題であるかどうかを私は引き合いに出しているということだ。

虐殺器官』はどこまでも誠実に主人公の変化を扱っている。如何に世界観をこねくり回して主人公が哲学者で、そしてそれが私の好みでも、展開は王道であり、そしてそれゆえ陳腐になってしまうことは避けられない。円城塔は作品を終わらせていない。あるいは終わらせなくても作品は成立するということを主張しているのだろうか。むしろもっと、小説という形式を弄んでニヤニヤとしているような、そんな《我々》を感じる。そして、私はそこに清々しさを感じるのである。終わらせなければ、失速もしない。陳腐にもならない。これは、臆病な私にとっての《切実な問題をはらんで》いるかもしれない。私が「ダラダラとしたのが好き」であるというのはしたがって少なくとも正解ではなかったのだが、あながち的を外してもいないように思える。

もしあなたがどこかで同じ道を歩いたなら、何が聞こえたのか教えてくれないだろうか。