平凡

この前の土曜日はこちらへ来てから初めての日本人会の in-person event があった。日本語だとどういう表現が自然だろうか。授業だと対面という用語が一般的だろう。そもそもオンラインが前提の世界ではなかったので、私の語彙はそこで止まっている。

日本人会といっても、全員が日本人というわけではない。ハーフも沢山いるし、日本に興味があるだけの外国人もいる。ことあの集団において日本人・外国人という二項対立は特に意味をなさないので、あまり褒められた表現ではないような気もするが。特筆すべきはその海外経験率である。現在の身分が始まる前に一年未満しか海外生活をしていないという人は殆ど存在しない。確か一人だけ博士以前の海外経験がないという人に会ったことがあるが、それ以外の数十人は少なくとも一年は留学経験が先にあるように思う。学部生に限って言えば、海外(ここでは日本の外という意味だが)で人生の大半を過ごしている人が大半であるように思う。もちろんこの見積もりはそのうち修正されるだろう。

下書きを寝かせている間にもう少し細かい数字をたまたま聞いた。日本の血が入っている人は学部生で一学年10人くらい、完全に日本生まれ日本育ちは3人くらいということらしい。後者は典型的には高校以前からイギリスにいる。つまり日本人はマイノリティであるし、オックスフォードが海外生活一年目という自分もまたその中で少数派である。

少数派であるというのは思ったよりも大変である。一つ例を挙げると同じ側に端的に不快な言動を繰り返す人間がいたとしても、少数派の定義からして取れる選択肢は少ない。少々の嫌悪とは付き合っていくことにする、少数派を脱却することを目指す、あるいは群れることをやめるというのがパッと出てくる道だろうか。こういったことを延々と論じたい訳ではないのでこの辺りにしておくが、マイノリティとして生活するとチクチクと不便さが露見してくるものだなあという小学生並みの感想である。学科の控室で楽しく過ごしている頃にはうまく咀嚼できなかった類の言説であり、現象である。

さて、『平凡』とは角田光代の短編集である。日本人会のイベントで仲良くなった人がこっちに持って来ているということで貸してくれた。新潮文庫の昔ながらのフォントで古さを感じながら読んでいたら途中で「ツイッター」なんて単語が出てきて面食らってしまった。2014年の作品で、文庫版に関して言えば令和に入ってからの発行であった。六つの短編は、いずれも「もし」の話である。選ばなかった、選べなかった未来がふと顔を出した時、我々の心は揺れる。だからといって何かができる訳でもないのに、繰り返し後悔する、あるいは別にそこに正負はなく、ただ思いを馳せる。そういう人達が設定を変えて描かれている作品である。

短編たちのうち、作品として好きだったのは『こともなし』と『どこかべつのところで』であるが、記憶に残ったのは表題作の『平凡』に登場する、呪いそして願いとしての「平凡」である。自分と関わって、憎悪を以って縁が切れた人間に対して願う平凡さ。平凡こそが不幸である。いや実はそうではなく、本当は不幸にならなくても良いから、平凡な人生を送ってくれと願う。憎悪のような強い感情は数日で消えてしまうものだが、例えば半年に一回 SNS で見かければ、平凡であれと願う。これは愛と対極にある感情なのだろうか。

されど平凡は美徳である。自らに対して願うものもまた平凡である。これは非凡であるという自意識の上に成立しているものなのだろうか。説明のしやすい特殊性と、ど平凡な思想である。しかし思い返すと、私が何か深く落ち込んでそこに言語化を試みるとき「個への意識が強過ぎる」という旨を、決してポジティブにではなく言われることが何度かあった。自分が何を為すかが問題にならない人間などいるのだろうか。いるのだろう。しかし私はそういう感覚が強いのだろうと思う。何かそこには一貫した信念があって、ある種の美的な軌跡を以って人生は歩まれるべきなのではないか。これは私の幸福な虚無主義に亀裂が走った時のみにひょっこりと顔を出す、それゆえ見直されてこなかった、少年漫画的な精神性である。数学者が形式主義プラトニズムを日和見に使い分けるのと似たような、しかしそれよりもずっと個人的な幼さである。

もっと先に何かがあって、それとも何もなくて、ずっと先を駆け抜けているように見えるのは実は幻で、彼らは前からずっと立ち止まっていて、そして私は流されていることに気付いていない。私は彼らの顔を見ることができない。立ち止まって水面を見ても、自分の顔はうまく見えない。

あー、美味いラーメンが食べたい。普通に。