サニティーチェック

関係のない話をしよう。

冨樫という男がいた。あるとき、彼の書いたプログラムが想定された挙動を示さず、そのコードをまた別の男がデバッグしていた。バグは確かに存在した。INFINITYという変数名を誤ってINSANITYと記述していた。狂気である。

しかし、関係がない。関係のある話もしよう。

冨樫という男がいた。あるとき、彼の書いたプログラムが想定された挙動を示さず、そのコードをまた別の男がデバッグしていた。バグは確かに存在したが、解消されるまで数時間を要した。そのあと、冨樫はこう言った。「まあ人間は顔が全てですからね」

なるほど。

驚くべきことに、これら二つの話はこの記事に全く関係がない。しかし、既にこの記事の一部となってしまっている。したがって、関係がないと言ってしまうのも語弊があるだろう。へえ。

人はどうやって正気を取り戻すか。これは、なにを正しい状態であるとするかに強く依存する。私の場合、どこに敷かれているのか。恐らく中高、そして大学生の状態を「正」としている。その頃は毎日友人と会話し、状態の振動はありつつも、概ね定常なものに保たれていた。これは、我々の環境が長らく同質的なものであったことに由来する。

今の生活では、そのような環境が存在しない。たとえば友人はいるが、彼らと会うのは予定としてであり、さらにコミュニケーションの質も昔とは異なる。これは、多くの社会人と呼ばれる存在にとっても程度の差こそあれ当てはまることではないだろうか。環境がなければ、正気に戻る方法は二つしかない。一つは自らを律することであり、もう一つは正気の定義を変えることである。一般人に自律を求めるのは要求が高すぎるので、自らを律することは不可能であるとしても一般性を失わない。

こうやって、ほとんど全ての人間は、生活様式の変遷に伴い、正気の定義を変えることを迫られる。躺平主義者のように強い自我がなければ、若者はやがて子供の頃に揶揄したこともあったであろう狂気の道に進んでいく。新しい正気はどうやって記述されるのだろうか。私はまだその答えを知らないが、勤勉な労働者諸兄の賢明なコメントを待ちたい。ちなみに、私はどうやって正気に戻ったものか思案中である。

ところで、また漫画を描いている。数十ページの読み切りにするつもりで、今は二十ページ分くらいのネームを描いた。このネームというのが曲者で、セリフと構図をおおよそ描くようなものなのだが、うまく手を抜くのが難しい。どうせだからと「見られる絵」を描いてしまい、これではペンを入れる直前の下書きと大差なく、数時間では何ページも進めようと思っても難しい。下書きを先にやっていると思えばいいのだろうが、一ページの作業負荷の高さは就労後の作業可能性を削ぐには十分である。頭の中に話はあるが、絵や構図はない。これを日中の思考で疲弊した頭で寝る前に絞り出すのは大変である。この記事を書きながら、日本語は母語だがイラストの類についてはネイティブではないということを痛感している。

とはいっても、模写や色塗りは簡単である。頭を使う必要がない。何も考えずに見たまま線を描き、色を塗り、影をつければいい。リアルにするだけなら、時間をかければかけるほど、見たままのものに近づいていく。目で見て、もしかしたら少し脳内で変換して得られた、頭の中の正解に手元のイラストを近づけていけばいい。ネームや漫画を描く作業は、正解も更新していかなければならず、GANの学習過程そのものである。普通は順番が逆なんだろうが。頭の中にボヤッとしたストーリーがある。コマを割ってセリフを書く。ストーリーから外れそうになったらセリフを修正する。より粒度の高い情報が必要になったらストーリーを修正する。そうやって頭の中のストーリーは完成していき、自分が描いているものがそれに適合するかの判定も厳しくなっていく。登場人物の性格が判明していき、最初の方の顔やセリフが気に入らなくなってくる。しかし何度もエポックは回せない。人生では定数倍が命取りである。

脳が疲れている。頭頂部の方で何かがサチっているような状態になり、論文を書く手が止まる。証明が回らなくなる。セリフが何も思い浮かばなくなる。一日は短いが、彼の労働時間ははるかに短い。彼が働くのをやめると、漫画すら読めなくなる。能動的なことは何もできない。囲碁エストで負け続けることを除いては。

受動的なものといえば、最近、ポッドキャストをよく聴いている。日中とりあえずなにか流している。人の話し声があった方がいい。大体二人組があーだこーだ喋っていて、少し作業に集中すると何の話だったかわからなくなる。だが、それでいい。往々にして彼らが衒学的であるのもいい。学科の控室で数学の本と睨めっこしていた頃、そして皆意味もなくボードゲームをしていた頃、あの頃私は正気だった。

それ、誉め言葉ね。