1年目

飛行機の中である。さっきまで浅野いにおの『デデデデ』を読んでいた。途中、なんだか涙が止まらなかった。

ここ何十時間かわからないがずっと色んな椅子で寝たり起きたりを繰り返して今はあまり眠くない。やっぱり旅の最後は感想文を書くと相場が決まっている。

パソコンを取り出すのが億劫なのでiPadのメモアプリを開くと、2019年4月のウクライナでの日記と、去年2月のオーストラリア旅行の麻雀の勝ち負けの記録だけがあった。海外に行った時しかこういう機能は使わないらしい。そうだ、あれが私にとって最後のオンサイトの国際イベントだった。再びスタッフとして参加する予定だった翌年の大会からは、世の中はずっとオンラインである。オーストラリア旅行はまだ記憶に新しい。高校同期の卒業旅行だったが、院試のオンライン面接が入って急遽日程をずらして後から参加した。出る時にはあまり大事ではなかったが、旅行先で段々とダイヤモンドプリンセス号のニュースが取り沙汰され、帰国した頃には既に空港が異様な雰囲気に包まれていた。あれから1年半、世界は変わってしまったままである。

そういう意味で、久しぶりの帰国である。B2くらいからはなんだかんだ毎年海外に行っていたから、かなりブランクを感じる。帰国ブランクが祟って一本乗り損ねたのかもしれない。

同じ時間を過ごしてもその体感は歳を重ねるごとに短くなっていくというが、この一年は大学に入ってからでも指折りの長さだったように思う。まあ初めての経験ばかりだったという話で、そして一番苦しい一年だった。留学2割、コロナ8割くらいだろうか。

秋に渡航してから、2020年の間は非常に順調だったように思う。あるいは熱に浮かされていたとも言える。特に11月ロックダウンが再開してからはずっと数学のことを考えていて、かなり早い段階で面白い結果が次々と得られた。12月にはそれと並行して絵の練習も初めて、生産性という意味では今考えると信じられない勢いであった。そして案の定、1月に精神が壊れる。

メンタルの不調という点で言うと、デフォルトで鬱々としているのを責めないことにすれば、大きく沈んで一週間単位で何も手につかなくなったのは1月、3月、5月の3回である。パターンとしては非常にわかりやすく、1月と3月は連日深夜まで論文を書き続けて終わった少し後にダメになり、5月は数日間ずっと考えていた問題が解けた直後である。こうして書くと燃え尽きっぽいが、どれもその成果に対するフィードバックへの深い失望から来るものだったと思う。別に教員に限らないだろうが、成果物へのフィードバックというのは一言「いいね!」と言った後で修正の方向性などが長々と返ってくる。科学の基本はクリティカル・シンキングである。ロックダウン下で絞り出した成果があっさりと流されていくように思えるのはやり場のない苦しさがある。

世の中そんなもんである。現場で働く人間を労う上司、あるいは仲の良い友達同士であっても、褒め言葉なんてものは滅多にないしあっても抽象的である。ディティールに対してここが良いね!と言って回るのは重要だが難しい。比して、具体的な指摘をするのは簡単であるがされて気持ちの良いものではない。そういう構造的な上司への鬱憤は同期や部下同士の軽口で解消され、会社は不健全ながらも回っていく。そういうセーフティネットはコロナによって失われ、溜め込んでしまう人は増えているだろう。

一般化する必要もなく、私が単に承認が足りない生活を過ごしていたということだ。状況は少しずつであるが改善している。一番新しい原稿を書き上げた後は別に長い燃え尽きはなかったし、やっぱりフラットメイトの勧め通りオフィスに毎日行き始めたのが良かったのだろう。単に日常会話が増えるだけで良い。たまには教員とホワイトボードを囲んで議論できれば良い。そして、体は動かした方が良い。

精神の浮き沈みが激しかった今年序盤であるが、1月と3月大体半分以上手が止まっていたように思う。ドラマを見て、アニメを見て、小説を読み、ラノベを読み、時々消費に飽きて文章を書く。感染爆発に悲壮感漂うイギリスの年初はそんな感じだった。絵を描くのは結構エネルギーがいるので、毎日やっていたのが途切れてからはむしろ忌避していた。最近またふとやる気になったりするので、良い傾向である。

5月末あたりからは毎日オフィスに行くようになった。これは非常に精神に良く作用したのだが、また別種の寂しさが加速された。平日オフィスから帰ってくると、もう日本人は寝ている。たまにdiscordを眺めても、そんな時間に起きているのはパソコンをカタカタしている謎の集団くらいである。もちろん、現地での交流もあるにはあるが、ご時世からしてそんな毎日外で飲み会みたいな雰囲気ではない。出鼻を挫かれて友達作りに失敗したことは素直に認めよう。オフィスに行き始めてから、あるいはワクチンによる第一谷のあたりからは交流が増えていったので、年度末に近くすぐに人が散り散りになってしまったことを考えれば、次の秋からはもう少し楽しく過ごせるかもしれない。

ノリで留学を決めた頃には全く覚悟できていなかった暴れ方をしたのでこの一年というと自分の精神状態ばかり思い浮かぶが、もう少し留学記っぽいことも書くべきだろう。そういえば奨学金向けにも文章を書かないといけないんだった。こんな内向的な文章しか出てこないようではよろしくない。重複を恐れずに、もう少しそれっぽく書いてみる。

入居初日のことはよく覚えている。イギリスは、あるいは少なくともオックスフォードは、実際には言われているほど天気が悪いわけではなく、雨の時も傘をさす必要のない霧雨が主流である。しかし、私が来たばかりの10月頭は非常に天気が悪く連日土砂降りであり、イギリスの天気が悪いというのはこういうことなのか勘違いして困り果てていた覚えがある。

私は当初の希望が外れ、カレッジから歩いて20分くらいの距離のオフサイトの寮に住むことになっていた。入居当日、カレッジで鍵を含め諸々の書類を受け取ったあと、土砂降りだったのでタクシーを呼んでもらって寮に着いたのだが、タクシーが去った後、寮の門が私の学生証では開かないということに気付いた。多分正確にはどうやって開けるのかもわからず、学生証を使ったら開きそうだけど何を試してもダメだという感じで途方に暮れていたと思う。カレッジに連絡するために、一応買っておいたプリペイドSIMの電話を試してみたがどういうわけか電話がかからず、結局たまたま通りかかった隣の建物の人が学生証でゲートを開けてくれた。どうやら私の学生証がまだアクティベートされていなかったようである。この時点で既に全てがびしょ濡れで大変先が思いやられていた。

さて、入れたはいいが、なんとかしてカレッジに連絡してシステムを更新してもらわないと家から出れても帰ってくることができない。メールも送ってみたが暫く反応がないので、結局雨の中カレッジまで行くことにした。今度は身軽なので折り畳みをさしてカレッジまで歩いたが、傘は特に何の役割も果たさず、初めて歩く道をGoogleに尋ねながら既にこの時点で半泣きであった。カレッジに着くと「雨の中歩いてきたのか!寮のインターホンのとこからカレッジに直接通話繋がってそっから遠隔でゲート開けれるのに!」みたいな反応をされた。いや、知らんが…。そんな面倒な仕様にする前にアクティベートを済ませてから配布してくれ。処理が終わるまで、日本人が物珍しいということで、ブラジル出身のスタッフが延々と「オマエハモウシンデイル」とか日本アニメのセリフをずっと並べ立てていた。意味は分かっていないと言っていた気がする。というのが初日であった。

10月の間はロックダウンもなく6人までなら食事などにも行けて、何回かカレッジや奨学金のグループで集まった。IELTS対策を経て学部時代よりは英語力は向上していたが、やはりネイティブ同士がパブで喋っているのは本当に聞き取れなかった。別に今でも全て聞き取れる訳ではないが、この頃は私が話を振られたタイミング以外は会話に何もついていけず、毎回居た堪れなくなっていた。その意味で、コロナに出鼻を挫かれたとはいえ、他の学生と、特にネイティブと仲良くなる程会話ができる素地がそもそも最初の月にはなかったように思う。それでも、寮で同じ階に住んでキッチンをシェアしている人達とは必然的に話す機会が増え、半強制的に仲良くなることができた。一対一で喋る場を何回も作れれば、拙い英語でも慣れてもらえるものである。

やっと留学生活に慣れ初めていた頃に、コロナの状況が悪化して11月頭にロックダウンになった。おそらくこのタイミングの規制強化はロックダウンとは呼ばれていないが、原則家を出るな、外食は持ち帰りのみということになり、要はロックダウンである。勘弁してもらいたいものである。この時点でフラットメイト(寮の同じ階の人たち)以外とは関わりが実質的に絶たれ、まあ研究しかやることがなくなる。11月は本当に数学に没頭しており、毎週新しい定理を証明していた。忘れかけていたがこの頃TAもやり、学生の筆記体を解読したりオンラインで画面共有して問題解説したりもしていた。TA自体は嫌いではない。特に研究が煮詰まってネットサーフィンに終始している時期であれば、こういう教育活動に救われる面があると思う。

色々忘れているがカレンダーを見るといくつか思い出してきた。12月にはbroadeningというので専門外の分野の修士向け授業に関連して発展的なレポートを書くというのを二つやった。片方は分数階ソボレフ空間とか軽いものを書いたが、もう一つはリー群・リー環について(完全に代数的な)Adoの定理を認めた上でリーの第三定理などをほぼself-containedにまとめるものを書いて、これは結構大変だった。一週間くらいかかった気がする。

この時期に別で突然やらされていたこととして2月の国際学会のオーガナイザーがあり、役目を押し付けられた学生3人で何回かミーティングをしていた。リモートで何回も英語を聞き直しまくってこれもまた居心地が悪かった。出来るだけコミュニケーションの必要ないホームページ作りやパンフレット作成を引き受けた。まあどう立ち振る舞うべきか難しいところである。

12月も中頃になるとイギリス人はみんな実家に帰り、寮に帰省失敗したギリシャ人と2人でいる期間が数週間あったと思う。もう少し仲良くすればよかったのだが、私はクリスマスで休みをとった彼女が連日部屋で歌っているのにイライラしていた。まあ人によるだろうが私は人が歌ってるのが延々と聞こえてくるのは苦手である。それが理由でこの頃にノイキャンの付いたAirPods Proを購入したのだったと思う。別に揉めた訳ではないが、夏に彼女が寮を引き払う際には欧米式のハグで別れを惜しんだし、和解済みである(?)

それにしてもクリスマスはヨーロッパではあまりにも重大なイベントであるようである。イギリス政府はクリスマスは仕方ないということで規制を全国的に緩和し、その後の年始の感染爆発に奇麗にバトンを繋いだ。彼らはみな帰省し、寮に残っていたのはアジア人が大勢を占めていたと思う。

1月から3月にかけては、あまり語ることがない。帰省したイギリス人たちはなかなか戻ってこなかった。確かresearch student以外はオックスフォードに戻るなみたいなお達しが出ていたように思う。感染者数は鰻登りで一瞬解禁された外食もまた禁止され、それはもう大変な悲壮感だった。この頃、公園でソーシャルディスタンスを保ちながら少数の日本人と何回か会っていたかもしれない。年変わる前かも。

さて2月はまたTAやら学会発表やらで忙しくしていて、研究成果もさらに発展しつつあったのでよかったが、最初の方に書いたように、3月に頑張りすぎてダメになるタイミングが訪れる。ここが一番長く、かなり手が止まって呆けていた時期だったように思う。仕方がないから読書やら何やらしていたら、暗い本ばっかり読んでさらにダメになったりもしていた。Lost in Mathは読むタイミング間違えたかなあ。次の研究のアイディアは比較的早い段階からあったのだがなかなか手が動かず、指導教員の謎のこだわりに振り回されたりして(後からこの路線に固執しすぎたすまんみたいなことを言われた)小ネタはどんどん増えていくが執筆がいよいよ億劫になってきていた。そして5月に決定的に沈んでゆくのである。言うまでもないがここまでずっとロックダウンである。

このタイミングでデータサイエンティスト達に電話で人生相談したり指導教員にポエムを送りつけたり色々模索していたが、戻ってきていたイギリス人のフラットメイトにオフィスに行くことを示唆され、ここから人生が動き始める。7月にはみんな学期終わりでいなくなったりしていて、実質的にはまともな留学生活が遅れたのは前年10月と6月だけだった。10月に比べれば英語への憎しみはともかく抵抗はある程度薄れていて、スウェーデン人の先輩と毎日のようにランチをしていたし、めっちゃ心配性なインド人の女の子も時々参加して心配エピソードを色々聞いていた。オフィスに来ていたのはそんな大勢ではなかったが、6月は非常に充実していた。ロックダウン緩和に伴う初めての日本人会の大規模イベントもあったりと一気に知り合いが増えたし、かなり仲良くなった人もいる。ここからはなかなか楽しかったと思う。7月にみんな寮からいなくなって滞在を後悔したりもしたが、論文もまた仕上がったし順調である。まあアカデミアに残るかはともかく、博士はやり切れそうだという心持ちである。

こう書いてみるとまともに留学生活をエンジョイできていたのは6月だけだったんだなという驚きである。まあずっとコロナだったし仕方ない。来年は勘弁してくれ〜

時系列で書くと緩やかな変化なのであまり現れてこなかったが、この国の日照時間は特筆すべきである。オックスフォードの緯度は北緯51度である。中学受験知識としてイタリアのかかとと秋田の男鹿半島が北緯40度なので、ヨーロッパは全体として直感よりも(?)高いところにある。この結果、冬はもう15時半とかにあたりが真っ暗だし、夏はサマータイムもあって夜10時近くでもまだ明るい。イギリスの冬、ロックダウン、みんな帰省して閑散とした寮、これは鬱病の繁殖しやすい環境である。逆に、夏はいつまでも明るくてそれでいて暑すぎず快適である。毎年一週間くらいだけ30℃を超えるみたいだが、それを除けば素晴らしい。その週は、この国に冷房があまりないのもあり、特にオフィスでは日照りも良くて死にかけていた。

さあつらつらと書いてきたがそろそろ眠くなってきた。まだフライトが3時間残っているので、再びの仮眠にでも挑戦してみようか。フライトを逃したバタバタで精神が侵されていたが、振り返ると尻上がりな感じで未来に希望の持てるアカデミックイヤーの締まり方である。この夏日本をエンジョイして、そしてまた去年とは違ったイギリスに戻ってこられることを祈るばかりである。

夏休み

なんかやっていた研究がひと段落したので、夏休みという気分になった。休みといっても、来月学会にふたつ出るし、帰省だとか自主隔離だとか、まあコロナもあるのでそんな休み感があるかはよく分からない。それでも、博士を始めてから能動的に休む時間が増えたので、夏の間に一ヶ月くらいは何かをする時間は取れるだろう。

何か、ねえ。夏休みって何をしていたんだっけ?

修士の頃は、なんだかんだ、忙しくしていた気がする。M2の夏は、あまり思い出したくないがかなりドタバタだった。M1の夏は、初めて学会に、それも3つも参加した。合間で新しいトピックも勉強していたし、カフェの店員さんと仲良くなった。学部の頃から同じスケジュールアプリを使っているが、今見ると学部生の頃は旅行、サークルの合宿、夏季セミ、他にも飲み会やらなんやら色々している。人間的な活動をしている。そういえば、なんかそういうのをこっちでは social というらしい。Friday social とか Grad social とか、めっちゃ使う。多分 social events の省略とかなんだと思うけど。なので social distance を社会的距離って堅苦しく訳すのは多分ニュアンスが違うんだろう。

話を戻すと、私にとって夏というのはなんか3日〜1週間くらいのイベントが散発的にいくつか入っていて、合間にある3日くらいずつの何もない日をダラダラ過ごしていたら通り過ぎていく、そういうものだった。もちろん、もう働いてる人から見ると「何を夏休みなんて寝ぼけたことを言ってるんだ」と思われるのかもしれないが、こういう時は学生であることを主張させてもらおう。日和見主義者の特権である。

それにしても問題である。夏休みなのに、イベントがない。何をすればいいんだろうか。日本の大学生たちは夏休み何をするんだろうか。結局、サークルの合宿とかそういうものは帰って来ないんだろうか。

非日常が与えられずただ休みだけが与えられると困ってしまう。平坦さから逃れるように、思考はメタに逃げ上がる。そうやって何回か押し上げられると、急転直下の袋小路である。

こうやってふと旧友を訪れるようなことが増えていくのだろうか。これは2021年に限った話ではないのかもしれない。それでも、狭い意味での夏休みはあと何回もないんだから、まとまった時間がなきゃ出来ないようなこと、探しておかないとな。

この前の記事(登山 - 小麦をこねる)の続き。

先輩が引退する少し前から、太秦にある(今はもうコーチ陣が移動して別の場所で別の名前のクラブチームをやっているのだが)卓球クラブに週一くらいで通っていた。記憶がかなり怪しいが、このクラブチームはエリートコースと一般コース、初心者コースに分かれていて、俺たちは一般コースに通っていた。俺「たち」と書いたのは、まずキャプテンが通っていたし、そしてそこから誘われる形で俺ともう一人、後から他にもうちの部から通い始める奴がいたからだ。

本当にそんな名前だったかは自信がないが、エリートコースは文字通り小学校低学年から卓球のエリート教育をしていて、大体の選手は中3時に(強ければ中2でも)近畿個人ベスト12の枠を突破し全中に出場、全国でも戦えるような選手に成長する。多分野球とかと同じで高校に上がるとそういう選手の練習拠点は高校メインになるので、クラブチームには中学生までしかいない。一番強い人で言うと全中ベスト8、その後ジュニアとかではなく全日本ダブルスベスト8まで上りつめた女子もいる。サインもらっとくんだったなあ。うちの市にはそういう超強豪クラブチームが二つあって、そういう「どうあがいても勝てない選手」が男子で言うと同学年と一学年下に合わせて4人いた。前の記事で奇跡的に1セット取ってベンチが沸きたった対戦相手というのもそういうクラブチームの人で、ただ上の学年だったので意識することはあれ以来なかった。

まあ物心ついた頃から卓球してる人たちとのレベルの差は絶望的で、彼らが超人的な練習をしているネット一枚隔てた横で我々「一般の部」は平凡な練習をしていた。俺にとってこの場所は何か新しい技術を習得するための場所というよりも、卓球がしたくて週5回の放課後の練習時間では物足りないが故の場所だった。うちの中学からは行くのに1時間弱くらいかかり、面倒になって次の週に振り替えたりしたこともあったが、基本的にはチームメイトのYと週一で通っていた。練習後に太秦の地下鉄駅の近くのパン屋でよくメロンパンを買っていたのが忘れられない。Yとは家が近く、帰りの地下鉄ではよく二人で爆睡していた。

このクラブには意外と他にも同じくらいの強さの同学年が何人かいたりして、仲良くなった奴もいた。練習時間は短かったが、同じ中学以外の選手と戦う良い機会であった。うちの中学から以外に、M中学というところからも学年から二人練習に顔を出していて、確かその頃「キャプテンになったから」というよく分からない理由で親を説き伏せて携帯を手に入れた俺は、彼らとよく連絡を取っていた。彼らとはその前から多分練習試合か何かで知り合っていたように思う。

卓球の練習試合というのは、もちろん二校だけでやることもあったが、多くは顧問の繋がりなどによって会場が許せば四校やそれ以上で集まってやることが多く、私学故に広い体育館を持っていたうちの中学はよく会場を貸すことでその輪に入れてもらっていたと思う。思えばかなり強い学校とも練習試合を組んでもらうこともあって、その頃顧問に十分感謝できていたかどうか分からない。よくあるのは、参加校全体でリーグ戦を組み、まずはペアになった参加校同士で団体戦、次に時間と体力が余っていれば希望者が空いている台で相手校の誰かに申し込んで試合をする、というものだ。団体戦で試合を見れば相手校のどの選手が強いか分かるので、そういう人に申し込んで、その後試合が盛り上がったりすれば仲良くなっていた。良い試合ができればお互いの名前はすぐ覚えるし、仲良くなって次に大会で一緒に昼飯を食ったりする。

M中の二人とは多分そんな中で知り合った。もしかしたらクラブチームが先だったかもしれないし、クラブチームに彼らが来始めたのは中3に入ってからだったかもしれないが、少なくとも中2秋、新チーム発足の時点で彼らとは知り合いであった。M中には同じ学年の部員が三人いて、彼らは皆かなり強かった。なのでM中三人衆と呼ぶべきである。彼ら三人とは全員と仲良くしていたが、クラブチームに顔を出していたのはそのうち二人だけだったと思う。

うちの中学は中1大会で準優勝したと言ったがその頃もある程度充実しており、特に中2の頃から全市に個人で進出していた俺とYよりも明確に強い選手は、中3たちが引退した今、市に10人といなかった。もう一人、中1大会で大活躍した経験者がいたが、彼はその頃少し伸び悩んでいた。M中三人衆は俺やYなら競りつつも勝てるが、他の部員だと厳しい、という感じのレベルだった。しかしM中は部員が少なく、三人衆以外は全て取れると踏んでいたので、俺かYが三人衆から1勝を取ればそれだけで良く、なので団体戦において脅威にはならないというのがその頃の俺の観察だった。

ここでうちの公式戦のスケジュールを復習しておく。

  • 秋:1年生大会・新人戦。どっちも団体戦。1年生の場合はブロック上位2チームが全市決勝、新人戦(2年以下)の場合は4チームが全市決勝に進出。

  • 冬:学年別の個人戦。1年生・2年生ともにブロックのベスト8が全市決勝に進出。

  • 春:学年無差別。個人戦はブロックからで、ベスト16が全市決勝。団体戦はトーナメント一発勝負。

  • 夏:春と基本的に同じだけど、全中に繋がっている。団体で言うと市ベスト4が府大会に進出、府ベスト2が近畿大会に進出。

新チーム発足最初の大会は秋の新人戦、まずはブロック予選からである。抽選が行われ、今シーズンを共に戦うブロックが決定された。なんの因果か団体のブロック予選の初戦はM中だった。M中に負けることはないと思っていたが、三人衆はかなり強いので、初戦で戦いたい相手では全くなかった。

さて、新人戦でのシードは恐らく前年の1年生大会の結果に基づいて決定されていたように思う。これは単なる推測だが、全市決勝の結果ではなく、前年の1年生大会のブロック予選の1位と2位が均等に割り振られるという条件下でくじ引きが行われていたのではないだろうか。うちのチームは2位シードか何かだったように思う。そして、ここは記憶が曖昧なのだが、ブロック内でまた4つのリーグ戦が行われ、それぞれの1位がトーナメントをして順位を決めて全市に臨むという形式だったように思う。さて、1年生大会に部員が足りず出場していなかったこのM中は、妥当なシード権を勝ち取ることができず、この小ブロックに入ってきた。

卓球の団体戦は、中学では6人対6人の形式である。トップ、セカンド、ダブルス、フォース、ラストの5試合を行い、3勝以上した方の勝ちである。真ん中のダブルス以外は全て一対一で、トップとセカンドに強い選手を出して先に白星を稼ぐのが普通である。M中の戦力は練習試合である程度知っていたので(知らない部員が二人増えていたのだが)、いい試合にはなるだろうが勝てると踏んで、一応俺とYを前後半にバラけさせて、俺がセカンド、Yがフォースに入った。トップは小学校の時に少し卓球をかじっていたNである。基本的にM中は俺とYに三人衆を出来るだけ当てたくないから変則的なオーダーを組んでくるだろうと思っていたが、こちらとしてはまあ適当に組めば運が良ければ二人とも当たれるし、まあ全体としては負けることはないだろうし、それよりもシングルスで三人衆と当たれたら良い試合ができるだろうな、楽しみだなという気持ちでいた。

やけにニコニコした向こうのキャプテンと書いたばかりのオーダー用紙を交換し、手にした紙を一目見て愕然とする。

向こうのキャプテンがダブルスに入っていた。

なるほど、俺とYがダブルに出てくることはない、いや、理論上はありうるのだが普通そんなことはしない。ならばダブルスに三人衆を投入することで確実に一本取れる。他の三人衆はフォース、ラストだった。徹底的に変則的なオーダーで、そして勝ちに来ていることがよく伝わった。ただ、俺とYの前後半をバラけさせたのは不幸中の幸いだった。Yが負けなければ大丈夫だ。

しかしオーダーの時点で各試合の勝ち負けがほぼハッキリしており、トップのNと俺、そしてYは絶対に負けられなくなってしまった。いつの間にか精神的な状況が逆転していないか?

結果、Nが負けた。プレッシャーもあったのだろう。対戦相手が思ったより成長していて気圧されたままやられたようにも見えた。トップとセカンドは同時進行で、俺は自分の試合のことなど上の空で、ほとんどNの試合を見ながらプレイしていた。自分に捨て駒をうまく当てられてしまったことに苛立ち、初心者相手にやるように何の回転もかけないサーブを出し、相手が失敗するまで打ち頃のボールを送り続け、手を抜いた無気力な試合をして勝った。この試合のことは深く反省している。しかし、その日の俺にとっては、三人衆との戦いを楽しみにしていたのに、ダブルスに主力をずらしてまで捨て駒をぶつけてくることの方がスポーツマンシップに欠ける行為だと思えたのだ。後日、三人衆から「うちの顧問がお前の試合態度にガチギレしてたぞ」と言われた。団体戦のことばかり気になって、対戦相手へのリスペクトがなかった。後悔である。

さて、勝って一足先にベンチに戻り、Nの応援に移る。確かちょうど1セット取り返して1-2くらいだったと思う。結局、次のセットは取れなかった。並行して始まったタブルスも、この日のために練習してきたのであろう、キャプテンの個人能力だけで立ち回るという感じではなく、連携が取れていた。うちのダブルスも善戦したが、しかしやはり最後はM中キャプテンのドライブが返せない。これも負けた。

多分ダブルスが終わる前にフォースのYと三人衆が一人との試合が始まり、これも良い試合であったが、3-1でYが勝利した。ラストは三人衆の最後の一人にあっさりと負けた。番狂わせは起きなかった。いや、俺たちの敗北という意味で、団体戦としては番狂わせであったのだと思う。1年生大会で市準優勝したチームは、新人戦でベスト16にも残れなかった。次の春季総体は一発トーナメントである。ここでシードが貰えないと、どこに入れられるか分からない。近畿大会出場という目標に、暗雲が立ち込めていた。

多分、こうして負けたあとから、俺は焦り始めた。今のまま顧問が決めた練習メニューを漫然とやっていて良いのだろうか。ダブルスをもっと強化しないといけないのではないだろうか。この頃は部活しか頭になかったので、結構真剣に考えていたと思う。市の主要チームのレギュラーや戦型をルーズリーフにリストアップし、どういうオーダーなら勝てるか、どういう対策をすべきか、というシミュレーションをしょっちゅうやっていた。何か生き急いだ中2は、顧問に「この練習メニューじゃチームが強くなれません、僕に決めさせてください」と言った。明らかにムッとした顔の顧問に「そんな勝手なことを言われても困る。せめて一週間分毎日の練習メニューを考えてきてくれないと」と言われたが、これは予想の範囲内であった。「もう印刷してきています。新チームはこれでやります」

顧問は明らかにつまらなさそうな顔をしていたが、引くつもりはなかった。結果、俺の組んだメニューで翌日から練習をすることになった。個人選手としても発展途上なのにチームの運営を勝手に背負い込んだこの選択は、果たして吉と出るのか。

登山

今シーズンで一番好きなアニメは何といっても、さよなら私のクラマー。原作は『四月は君の嘘』と同じ新川直司で、今回の舞台は女子サッカー。原作はもう終わっちゃったみたいだけど、君嘘と同じで2クールとかで最後までやるんだろうか。主人公は中学まで男子と一緒に練習してたけど試合には出られなくて、そして高校に入学して女子サッカー部に入るところから物語が始まる。他にも凄い一年生に恵まれて、別に主人公がいきなり無双する訳でもないんだけど、時々ノった時に誰も寄せ付けないようなプレーをして、そして何より楽しそうで、好きな作品。

孤独な努力が日の目を見て、でももちろん壁にもぶつかって、それでもどこかユニークな才能があって、というのに弱いんだと思う。やっぱり挑戦者でありたい。気負っていない若者が成長していくのを見ることによってのみ得られる類のカタルシス

こういう作品では、気負う王者側の苦しみにも同じくらい感情移入する余地があって、往々にしてそっちの歴史や思いの方が深かったりして、心が揺さぶられる。ぽっと出の、新進気鋭の若手でいられる時間って一瞬しかない。ちょっと高いところまで来たかもなと思ってしまうと、ふと階段の下を振り返ると、凄い勢いで駆け上がってくる奴がいる。守りに入ってしまって、今までみたいに自由にプレーできない、成長できない。11話を見た後、卓球のことを思い出して、なかなか眠れなかった。

卓球は、気負わない頃が一番楽しかった。部活に入って、初めての公式戦は団体戦だった。確か秋の中1大会。一人小学校の頃から卓球をやってる奴がいて、この学年は結構強いんじゃないかみたいな雰囲気があったけど、ポンポンと勝ち進んで、市の大会の決勝までいった。俺も決勝で優勝チームのキャプテンになんか勝って、団体としても2-3で惜敗だった。うちの学校はいつも団体でいうと市でベスト8、16を行き来してるみたいな(そもそも市のチーム数が50ちょっととかだったかな?)感じで、マグレかもしれないけど、なんかこの学年凄いんじゃないか、みたいな雰囲気になった。

今になってみると、男子校で一学年220人とかいたら運動部強くないと困るわな、とは思う。中学でどの部も割と強くて高校で勝てなくなるのは、スポーツ推薦とかそういうのもあるけど、単純に人数の問題だろう。公立中学が二、三マージされて高校が出来るのに中高一貫の側は人数が変わらないから、その後勝てなくなるのもまた仕方ない。もちろんいくつかの学校には名物顧問みたいなのがいて強さにだいぶ関わってくるんだけど、団体戦は中学だと6人(シングルス4人、ダブルス1組)揃えないといけなくて、物量戦だよなあ。

まあそれはそれとして、部活の大会ってシステムは結構面白い。うちの場合は市の中学が4つのブロックに(抽選でなのか、ある程度前年の成績を均すようになのか)多分秋口に分けられて、そこから次の夏までが1シーズン、基本的に小学校自体にめっちゃやってて入学即戦力ってのでもない限り、1年秋〜3年夏の2シーズンしか戦えない。

  • 秋:1年生大会・新人戦。どっちも団体戦。1年生の場合はブロック上位2チームが全市決勝、新人戦(2年以下)の場合は4チームが全市決勝に進出。
  • 冬:学年別の個人戦。1年生・2年生ともにブロックのベスト8が全市決勝に進出。
  • 春:学年無差別。個人戦はブロックからで、ベスト16が全市決勝。団体戦はトーナメント一発勝負。
  • 夏:春と基本的に同じだけど、全中に繋がっている。団体で言うと市ベスト4が府大会に進出、府ベスト2が近畿大会に進出。

というのが中体連の公式戦の大まかな流れ。で中1の次の公式戦は冬の学年別大会だった。この時には割と部内の実力順が固まりつつあって、1位登録で試合に出た。この順位登録ってのが結構人によっちゃ鬼門で、確か各校8人までしか出場できない。学年別大会は学年ごとに8人だからまだ良いんだけど、無差別になると上下でも争いがあったりする。この登録順位を決めるために大会前に部内総当たりをするんだよな。うちの部は確か最初学年14人とかで、半分近くは大会に出られなかった。

確かそれで1年生大会の結果も加味されて、確か初めての個人戦、ブロック予選第2シードかなんかからのスタートだったと思うんだけど、準々決勝で同じ部の奴に今度は負けて、その後順位決定戦とかもやって5位だった。対外試合で個人戦ってのが初めてだったから、予選通ったことが嬉しくて、その頃はシードの概念もよく分かってなかったし、素直に喜んでたと思う。ブロック予選は同じ学校同士が準々決勝まで当たらないように(8人までいるのでそれ以上は無理)トーナメント表が調整されてるけど、確か全市決勝は各ブロックの順位によって完全に決まってたと思う。ブロック間の置換とかはランダムだったのかな。

で次の全市決勝は1回戦別ブロック4位の奴とあたってよくわからないけど勝って、その次にまた別のブロックの1位の選手に当たった。これがもう強くて、確か最終的に全中ベスト32とかまで行った人なんだけど、公式戦で11-0でセットを取られるという得難い体験をした。まあ手も足も出なくて、笑っちゃったなあ。1年最後の大会はベスト16で終了。

その後の中2の春季大会で飛躍した。大会前日にラケットが折れたんだったな。中1の頃から逆張りで、一人だけカットマンをやりたいって顧問に言って。始めた頃にちょうど女子卓球で王輝が日本一で、松下浩二もまだ有名だったから、普通にカットマンはある程度人気だったかもしれないけど。で台から下がって先輩のループドライブかなんかを底でカットしようとしたときに、床に思いっきりぶつけて、綺麗に取手が取れたんだったと思う。まあそれまでもよく低空でカットしすぎてぶつけてたから、ダメージが蓄積してたんでしょう。

大急ぎで学校の近くの用品店に行って、同じラケットを買ってもらった。こういうところで親がすぐ動いてくれて協力的だったことは、決して万人にとって自明なことではないんだろうな。ラバーをどうしたかは覚えてない。折れたラケットのやつを剥がして張り直したのかな? 新品にするとそのバウンドに馴染むまで時間がかかるからなあ。試合前日にラバー張り替える奴なんていないよ。

それで気負いとか全然なくて試合に出れただけでラッキーみたいな気持ちで出たもんだから、大会は大活躍だった。3年も一緒に出てるから勝ち進めるとは全然思ってなくて、というかそれが初めての学年混合の試合だったんだけど、くじ運も良かった。初戦で2セット先に取られて、やっぱラケット折れたしダメかあなんて思ってたら、体がまだ温まってなかっただけで、そっから3セット連取して、その後調子が上がって、16入りで当たった第8シードの選手にもなんか3-0で勝っちゃった。この時点で全市行きは確定してたんだけど、もう一個勝って、準々決勝で第1シードの選手に当たった。この人は市で優勝争いしてる人で、今でも本名で調べると大学に入ってからの全日本の試合動画とかが出てくる。

なんかめちゃくちゃ調子が良くて、俺が先に1セット取ったもんだからベンチ大騒ぎになって、まあその後普通に負けたんだけどそれでも善戦して、悔しさなんて微塵もなくてただただ楽しかった。冬の学年別大会でベスト8止まりだったのに、今度3年も入れてまたベスト8入ったもんだから、びっくりした。しかも準々決勝で有名人からセット奪うし。

2年の春季団体については全く記憶にない。どうだったんだろう。その頃はまだ3年の先輩が大勢辞める前で、団体はその人達が出てたのかな。少なくとも夏前には3年生がほとんど辞めちゃって、もしかしたら既にキャプテンを除いた先輩に負けなくなってた俺が重ねてクソ生意気だったのが作用していたかもしれない。先輩とはよくしょうもない言い合いをした。でもその前から不真面目な学年だったから、一人圧倒的に強いキャプテンや形式的なところで厳しい顧問とソリが合わなくてということもありうる。そのキャプテンにはマグレ以上の確率で勝てるようになることは結局なかった。

2年夏のブロック予選はシードからスタートしてしっかり通過を決めた。まあ春9位の選手に8入りで負けて、順位決定戦は全部勝って結局9位だったと思う。往々にして9位にはトーナメントの場所が悪かっただけで実力はもっと上って人が入ってくるから、残当。なんかテニスのトーナメントはシード順そのままではトーナメント表の骨組みが決まらずなんか変則的(ベイビーステップで気付いた)だけど、うちの中学卓球は少なくともシード順に勝ち上がれば常に対戦カードのシード和が2冪+1になるようなカノニカルな対戦表だった。

団体戦は8入りでラストで出て粒高対カットマンのチキンレースをフルセットで制してチームのベスト8達成に貢献した。準々決勝でベンチから応援している仕方が生意気だということで相手選手の不況を買ったらしいというのを後から聞いて微妙な気持ちになったが…。個人の全市決勝も、春に出来なかった1勝を挙げて、市ベスト32という最終成績だった。ベスト12までが府大会に行けて、来年は行けると良いな〜と。キャプテンは府大会を惜しくも逃して泣いていたと思う。次からは俺たちの戦いだ、というのと同時に、ここまで本気でやれるかと少し不安だった。

それぞれの大会に思い出があって、書いている側は楽しいのだが、勝った負けたと数字ばかり続いている。夏の大会でも初戦で2セット先取されてから逆転したり、そういう必死な記憶の積み重ねが去来する。それをざっくばらんに書こうとすると数字になってしまうのか。

しかし楽しいのも苦しいのもここからである。2年秋から始まる1年間が全てであった。先輩のいるシーズンは右も左もよくわからないまま通り過ぎていったが、次の1年では強豪校のレギュラーはもうお互いに知っていて、意識しあって、手に入れたメールや携帯で別ブロックの様子を訊きあったりして、そして全員もれなくガキだった。

先輩が引退し、新キャプテンになった。就任時に抱負を求められた。

「団体で近畿に行こう」

平凡

この前の土曜日はこちらへ来てから初めての日本人会の in-person event があった。日本語だとどういう表現が自然だろうか。授業だと対面という用語が一般的だろう。そもそもオンラインが前提の世界ではなかったので、私の語彙はそこで止まっている。

日本人会といっても、全員が日本人というわけではない。ハーフも沢山いるし、日本に興味があるだけの外国人もいる。ことあの集団において日本人・外国人という二項対立は特に意味をなさないので、あまり褒められた表現ではないような気もするが。特筆すべきはその海外経験率である。現在の身分が始まる前に一年未満しか海外生活をしていないという人は殆ど存在しない。確か一人だけ博士以前の海外経験がないという人に会ったことがあるが、それ以外の数十人は少なくとも一年は留学経験が先にあるように思う。学部生に限って言えば、海外(ここでは日本の外という意味だが)で人生の大半を過ごしている人が大半であるように思う。もちろんこの見積もりはそのうち修正されるだろう。

下書きを寝かせている間にもう少し細かい数字をたまたま聞いた。日本の血が入っている人は学部生で一学年10人くらい、完全に日本生まれ日本育ちは3人くらいということらしい。後者は典型的には高校以前からイギリスにいる。つまり日本人はマイノリティであるし、オックスフォードが海外生活一年目という自分もまたその中で少数派である。

少数派であるというのは思ったよりも大変である。一つ例を挙げると同じ側に端的に不快な言動を繰り返す人間がいたとしても、少数派の定義からして取れる選択肢は少ない。少々の嫌悪とは付き合っていくことにする、少数派を脱却することを目指す、あるいは群れることをやめるというのがパッと出てくる道だろうか。こういったことを延々と論じたい訳ではないのでこの辺りにしておくが、マイノリティとして生活するとチクチクと不便さが露見してくるものだなあという小学生並みの感想である。学科の控室で楽しく過ごしている頃にはうまく咀嚼できなかった類の言説であり、現象である。

さて、『平凡』とは角田光代の短編集である。日本人会のイベントで仲良くなった人がこっちに持って来ているということで貸してくれた。新潮文庫の昔ながらのフォントで古さを感じながら読んでいたら途中で「ツイッター」なんて単語が出てきて面食らってしまった。2014年の作品で、文庫版に関して言えば令和に入ってからの発行であった。六つの短編は、いずれも「もし」の話である。選ばなかった、選べなかった未来がふと顔を出した時、我々の心は揺れる。だからといって何かができる訳でもないのに、繰り返し後悔する、あるいは別にそこに正負はなく、ただ思いを馳せる。そういう人達が設定を変えて描かれている作品である。

短編たちのうち、作品として好きだったのは『こともなし』と『どこかべつのところで』であるが、記憶に残ったのは表題作の『平凡』に登場する、呪いそして願いとしての「平凡」である。自分と関わって、憎悪を以って縁が切れた人間に対して願う平凡さ。平凡こそが不幸である。いや実はそうではなく、本当は不幸にならなくても良いから、平凡な人生を送ってくれと願う。憎悪のような強い感情は数日で消えてしまうものだが、例えば半年に一回 SNS で見かければ、平凡であれと願う。これは愛と対極にある感情なのだろうか。

されど平凡は美徳である。自らに対して願うものもまた平凡である。これは非凡であるという自意識の上に成立しているものなのだろうか。説明のしやすい特殊性と、ど平凡な思想である。しかし思い返すと、私が何か深く落ち込んでそこに言語化を試みるとき「個への意識が強過ぎる」という旨を、決してポジティブにではなく言われることが何度かあった。自分が何を為すかが問題にならない人間などいるのだろうか。いるのだろう。しかし私はそういう感覚が強いのだろうと思う。何かそこには一貫した信念があって、ある種の美的な軌跡を以って人生は歩まれるべきなのではないか。これは私の幸福な虚無主義に亀裂が走った時のみにひょっこりと顔を出す、それゆえ見直されてこなかった、少年漫画的な精神性である。数学者が形式主義プラトニズムを日和見に使い分けるのと似たような、しかしそれよりもずっと個人的な幼さである。

もっと先に何かがあって、それとも何もなくて、ずっと先を駆け抜けているように見えるのは実は幻で、彼らは前からずっと立ち止まっていて、そして私は流されていることに気付いていない。私は彼らの顔を見ることができない。立ち止まって水面を見ても、自分の顔はうまく見えない。

あー、美味いラーメンが食べたい。普通に。

通過

オックスフォードからロンドンへの往復には電車とバスがありうるが、少々時間がかかるが直通で安いということで移動には Oxford Tube というバスを利用した。片道一時間半というのが時刻表の示す値だったが、往路には二時間かかった。復路がどうだったかは覚えていない。なぜ時間の話をしたのかというと、この時間を見越して iPad に小説をダウンロードしていったからである。

友人との会話の中で円城塔でも読んでみようかという気になったが、物理学者だという著者の略歴を見る中彼が早逝した伊藤計畫と交流が深くその遺稿を作品として引き継ぎ完成させていたことを知り、そういえば教養時代のクラスメイトにやたら早口で伊藤計畫について語る奴がいたなと怪訝な顔になり、結局その頃に映画化で話題だった『虐殺器官』を読んでみることにした。そもそも読書家でもないが、こと SF ということになると読んだ経験は殆どない。多分誰かに影響されて『アンドロイドは電気羊の夢を見ない』を駒場時代に買ったのは覚えているが、それくらいだ。そういえば結局スター・ウォーズも見てないな。

バスの往復で(往路は酔いと戦いながらだが)ゆっくりと『虐殺器官』の前半を読んだ。出だしこそグロさはあったが、タイトルから勝手に想像していた(あるいは映画化の頃に敬遠していた)ような過激さはなく、むしろ繊細で内省的な主人公には興味と共感を覚えた。しかし、翌日最後まで読み進めた時には、前日に私が抱いた高揚感はなく、結末も非常にありふれたものに思えてしまった。冗漫な物語を摂取することに慣れてしまった私にとって、物語の起承転結が 400 ページ程度で済んでしまうというのは物足りないということだろうか。自分はもっとダラダラしたのが好きなんだなと、そんな風に結論付けた。

さらに翌日、つまり月曜日であるが、イギリスはバンクホリデーと呼ばれる祝日である。この国には日本の半分しか祝日がないのだが、まあ毎日が祝日みたいな生活をしていると言えなくもないので文句は言わないでおこう。『虐殺器官』と世界観を共有する『ハーモニー』を読むかあるいはその映画を見るか考えていたのだがあまり気が乗らなかったので、円城塔に手を出してみることにした。

読んだのは単行本『これはペンです』である。この本は表題作と『良い夜を持っている』の二つの中編からなるのだが、なかなか二つの作品の趣は違って見えた。『これはペンです』は最高のエンターテイメントである。私は終始ニヤニヤしながら読んでいた。ある友人に言わせればこれは「我々」であり、別の友人が使うであろう言葉を前もって拝借するならば「きらら系」と言える。科学的な記述には(少々冗長に思えるくらい)丁寧な説明があり脱線することもままあるのだが、それはご愛嬌だろう。難解を謳われる円城塔の作品の中でも読みやすいことで評判なようだ。

そんな愛の溢れた『これはペンです』であるが、落選した芥川賞の講評(円城塔(えんじょう とう)-芥川賞受賞作家|芥川賞のすべて・のようなもの)を見てみると面白い。(別で歴代の受賞作に対する石原慎太郎のコメントだけ眺めてみるのも面白い。)私は芥川賞の基準を知らないので何とも言えないが、ふわふわとした意見を述べるならばこの賞にしては過度なエンターテイメントであるように思える。胸をかき混ぜてくることはなく、終始安心と微笑を与えてくれる。純文学の殿堂かと言われれば…いや、私は日本の文学について特に知らないな。これからは直近の芥川賞直木賞作品くらいは読もうかな、とそんな気にさせてくれる。自分の言葉数には時々嫌気が差してしまうな。面白かった。笑わせてもらった。

転じて『良い夜を持っている』であるが、『これはペンです』の意外性のない平坦な安心感とは対照的な、一気に駆け抜けていくような表現を持っていた。小説としてではなく、ということであればラマチャンドランの『脳の中の幽霊』を少し読んだことがあるが、物語としての、いや指向性のある《物語》とは少し異なるのだが、没入と高揚を与えてくれた。私は前半より遥かにこちらの方が好きであると思うと同時に、大きな印象としての「訳分からなさ」を拭いきれなかった。訳分からないから面白い。これは別に逆張りではないと思う。

一応は「訳分からない」という表現を選んでいるが、この難解さは決して理解が及ばないとか意味不明すぎて読み進められないといったものではないように思う。細部の組み立ては、それぞれのパーツはすんなりと入ってくる。しかし気がつくと辺鄙なところを迷い歩いている。私はどっちから来たのだろうか。そういう時、現代文の試験なら何度も前に振り返って読み直すのだが、小説を小説として愉しむとき私はそのまま進む。だってそうだろう。普段の会話だってそうだ。この文章だってそうだ。文字の羅列にはその流れがある。もちろん我々はその向きからは解放された高次の存在であるとも言えるが、私は自然派なのでね。

一冊の小説を読むのに、漫画を読むのに、私の数倍、下手したら十倍の時間を懸ける人達を知っている。なかなかどうしてそういう人は思慮深い。これは単なる認知バイアスで、私がその生態に興味を持っているという前提条件があるというだけなのかもしれないが。そういう劇的な違いを目の当たりにすると怖くなる。私は表層をなぞることばかり覚えてしまっている。私にとって、メディアとは、私の経験の櫛を通り過ぎていく流れである。そこには明確な指向性があり、一期一会である。気に入った作品を何度も見るということも殆どない。本がつまらなくて読むのをやめてしまうということも殆どない。

波に逆らえなくて流れるように嘘をついてしまった。アニメ作品に限って言えば気に入った作品を何度も見るということは殆どないかもしれないが、祖母の家に行けば『修羅の門』を読むし実家に帰れば『黒子のバスケ』を読み返す。小学校の頃は『ハリー・ポッター』を十周くらいしただろう。五周目くらいで漸く気付いた伏線もあった。四巻の末のダンブルドアの表情の描写である。これは映像媒体特有の、自分でスピードを制御できないものへの態度であるかもしれない。本がつまらなくて読むのをやめたことも幾らかはある。『デイビッド・コパフィールド』は長すぎて二分冊目くらいで投げたし、『吉里吉里人』もそうかもしれない。チャーチルの自伝なんてものの数十ページで読むのをやめた。確かホワイトヘッド哲学書は一ページ目で断念した。漉し取れないことも当然あるのだ。

しかしある程度何か糸くずが絡まってくれるならそれ以上全てを堰き止めてまで吸収しようということにはならない。結局のところ時間とのトレードオフで、それが楽しみ方であり忍耐であるということか。その点映画はいい。快適な椅子にどしりと構えて何かが琴線に触れるのを待てばいい。ジャズか何かをやっている先輩が「音楽って、人によってどの音を聞いているのかまるで違って面白いんだ」と言っていた。交流は櫛の形を変えるだろう。

読んだ作品に限って言えば、伊藤計畫よりも円城塔の方が私の好みである。前者に感じた失速は、物語への誠実さによるものだと今では思っている。『虐殺器官』は物語である。始まりがあり、歴史があり、主人公は変わり、そして世界も変わる。『これはペンです』は物語だろうか? 日常系を物語と呼ぶなら、きっとそうだろう。昔小説家入門サイトみたいなものをチラリと見ると「小説とは、主人公が他の人物との交流を通して成長する物語である」というような定義がなされていた。小説だったか物語だったかはここではあまり重要ではなく、要は《変化》が主題であるかどうかを私は引き合いに出しているということだ。

虐殺器官』はどこまでも誠実に主人公の変化を扱っている。如何に世界観をこねくり回して主人公が哲学者で、そしてそれが私の好みでも、展開は王道であり、そしてそれゆえ陳腐になってしまうことは避けられない。円城塔は作品を終わらせていない。あるいは終わらせなくても作品は成立するということを主張しているのだろうか。むしろもっと、小説という形式を弄んでニヤニヤとしているような、そんな《我々》を感じる。そして、私はそこに清々しさを感じるのである。終わらせなければ、失速もしない。陳腐にもならない。これは、臆病な私にとっての《切実な問題をはらんで》いるかもしれない。私が「ダラダラとしたのが好き」であるというのはしたがって少なくとも正解ではなかったのだが、あながち的を外してもいないように思える。

もしあなたがどこかで同じ道を歩いたなら、何が聞こえたのか教えてくれないだろうか。

外出

気分の落ち込みの中に数学の意味を見失った私は、隣人に諭され、先週毎朝三十分かけて研究室へと足を運んだ。いや、元々そこに意味などないのだが。手なりで数学は言語だと言うこともあるが、私は同時にことばのことは非常に面白い対象だと思っている。《言語》が我々の意思疎通を促すデジタルなツールとして言及されるとき、それはことばではなく、数学であり、そしてつまらないものだ。そのような言語を私は数学以外に知らないし、もちろん私は数学がそのような言語だと思えるほど若くもないのだが。

先週の研究室生活は非常に楽しいものであった。三人部屋で私しか大学に来ていないのは少々寂しいが、隣の部屋にも同じく一人来ている二つ上の先輩がいる。先週の平日には、五回の昼食のうち三回をその先輩と共にする。北欧英語のリスニングに苦しみながら、ロックダウン生活で耳にする少数の訛りに調律された耳はまだ汎化に至っていないのだなと理解する。金曜日の夕方にはハッピーアワーなるものがあり、数学科のコモンルームに人が集まっていた。

やはり人と喋るのは良いものである。壁の外にも人類がいたのかと、私の他にも物を考える存在がこんなに沢山いるのだと。同じタイムゾーンで生活する人との交流は、私の現実感を取り戻してくれる。寮の同じ階には私のほかに四人が生活しているのだが。単に生活空間の変化、メリハリということなのだろうか。特に研究室に行って自室より手が動くといった感覚はないが、精神状態はずっといい。これと言って仕事の側が進捗していなくても、合わせて一時間以上かけて数学科に通えば、そこで別にお気に入りなどなくとも音楽愛好家のまねごとをしてリズミカルに歩けば、何か一日が有意義なものだったと思えてくる。

教授は「数学の研究で『問題を解こう』と考えるのは得策ではない。貢献できるであろう領域を、ゆっくりと円を描きながら冒険し、理解していく。その途上で極めて大きな問題が解けることもある」と諭す。ある友人は、これと本質的に近いことを、私の《悩み》に対して言う。我々は皆悩んでいる。私に限らず、人はふとした時、社会の閉塞を、人生の儚さを、宇宙の有限性を憂うだろう。内省的になる期間がほんの少し長すぎただけだ。疲労を少し溜めすぎただけだ。あるいは、今まで悩む暇もなく何かを盲信していただけだ。

私はまたここに戻ってくるだろう。これはそんな特別な悩みではない。むしろありふれた、誰でも抱えているような類のものだ。意味はない。しかし日に当たると機嫌が良くなる。運動するとよく眠れる。そういう風に出来ている。

週末は別の先輩に研究の話でもと誘われロンドンに出かけた。今シーズンはちょうどアニメ『憂国のモリアーティ』を見たりしているのだが、ベイカー街には言わずと知れた探偵事務所がある。彼の銅像があったが、よく考えると誰がその立ち姿を決めたのだろう。ドイルの文章による描写から、どのくらいの同値性を捨象して定まるのだろうか。例えば漫画はまだ分かりやすいと錯覚するが、ライトノベルのイラストはどういう往復を通して定まるのだろうか。私の読み方が浅いだけで、実はみんな物語といえばくっきりとした輪郭を思い浮かべて読んでいるのだろうか。私がキャラクターデザインの妙について無知であるということは確かだろう。ところで、ベイカー街のある Marylebone は「マールボーン」と発音するらしい。Mary + le + bone と発音してネイティブに二度訂正された。一度は「本当にイギリス人は誰もこの土地が Marlebone と発音されるのかわかっていないのだけれど、y は無視するんだよね、まあ別に誰も気にしていないんだけれど」と(実際には確かもっと長く)婉曲的だったもので、別に皮肉とかではないのだろうけど、Britishism を感じて心の中でニヤついた。この責任は私の中の京都にある。

北欧やネイティブに比べて週末のイタリア訛りは随分聞き取りやすかった。これはスペイン・イタリアに共通したローマ字読みに依るものなのだろうか。彼は印欧語の機微について詳しくはなかったが、後から合流したその友人は日本語についてまでよく知っていた。こっちに来てから、会話の途中で教養かぶれた内的思考をすることが増えた。単に発話の頻度が減ったからだろうか。会話のキャッチボールではなく、酷くアカデミックに偏った私の英語そのものによるせいだろうか。恐らく、小学生みたいな口調で気難しいことばかり言っている謎の東洋人だと映っているだろう。

夕日を受けながらだだっ広い公園で飲むビールは美味しかった。なんの話でそうなったか、「日本はもう資本主義レースには負けてしまったが Anime と Manga と Nintendo がある、それでいい」と言えば彼は笑いながら「我々にも Pizza と Spaghetti がある」と言っていた。一国で SDR 通貨を抱える日本の人間がそういうのを言うのは後になって考えると少々嫌味かもしれないが、まあアルコールも入っていたのだしあまり気にしないだろう。ドイツ人の英語の発音を真似して笑う飲み会なんてのもこの国では日常なのだから。

前置きにしては少し長くなってしまったが、この記事の主題としてこれを意図していた訳ではない。記事は別タイトルで、週末の読書によって想起されたものを予定していた。それについても途中まで書いたのだが、今日中に終わらなさそうだし分けることにする。別の着地点を意図して書いていた文章だから、どこか脈絡のないものになっているような気もする。まあいいだろう。ただの日記だ。

一応結びをつけよう。先週を通して数学に意味が見出せた訳ではないが、研究室に足を運ぶことは私の精神状態を劇的に改善した。寝て起きてを繰り返すうちに悩んでいることに飽きただけかもしれないが。機嫌が良いのが続くのであれば、博士号を取り切るまでくらいは続けられるだろう。その後どうするのかは分からないが、無理に今答えを出す必要はないだろう。自分の機嫌をとる方法は一つわかった。この方法にもまた飽きるだろう。でもその前には日本に帰っているだろうか。願わくば、そこであなたとの再会があらんことを。