サニティーチェック

関係のない話をしよう。

冨樫という男がいた。あるとき、彼の書いたプログラムが想定された挙動を示さず、そのコードをまた別の男がデバッグしていた。バグは確かに存在した。INFINITYという変数名を誤ってINSANITYと記述していた。狂気である。

しかし、関係がない。関係のある話もしよう。

冨樫という男がいた。あるとき、彼の書いたプログラムが想定された挙動を示さず、そのコードをまた別の男がデバッグしていた。バグは確かに存在したが、解消されるまで数時間を要した。そのあと、冨樫はこう言った。「まあ人間は顔が全てですからね」

なるほど。

驚くべきことに、これら二つの話はこの記事に全く関係がない。しかし、既にこの記事の一部となってしまっている。したがって、関係がないと言ってしまうのも語弊があるだろう。へえ。

人はどうやって正気を取り戻すか。これは、なにを正しい状態であるとするかに強く依存する。私の場合、どこに敷かれているのか。恐らく中高、そして大学生の状態を「正」としている。その頃は毎日友人と会話し、状態の振動はありつつも、概ね定常なものに保たれていた。これは、我々の環境が長らく同質的なものであったことに由来する。

今の生活では、そのような環境が存在しない。たとえば友人はいるが、彼らと会うのは予定としてであり、さらにコミュニケーションの質も昔とは異なる。これは、多くの社会人と呼ばれる存在にとっても程度の差こそあれ当てはまることではないだろうか。環境がなければ、正気に戻る方法は二つしかない。一つは自らを律することであり、もう一つは正気の定義を変えることである。一般人に自律を求めるのは要求が高すぎるので、自らを律することは不可能であるとしても一般性を失わない。

こうやって、ほとんど全ての人間は、生活様式の変遷に伴い、正気の定義を変えることを迫られる。躺平主義者のように強い自我がなければ、若者はやがて子供の頃に揶揄したこともあったであろう狂気の道に進んでいく。新しい正気はどうやって記述されるのだろうか。私はまだその答えを知らないが、勤勉な労働者諸兄の賢明なコメントを待ちたい。ちなみに、私はどうやって正気に戻ったものか思案中である。

ところで、また漫画を描いている。数十ページの読み切りにするつもりで、今は二十ページ分くらいのネームを描いた。このネームというのが曲者で、セリフと構図をおおよそ描くようなものなのだが、うまく手を抜くのが難しい。どうせだからと「見られる絵」を描いてしまい、これではペンを入れる直前の下書きと大差なく、数時間では何ページも進めようと思っても難しい。下書きを先にやっていると思えばいいのだろうが、一ページの作業負荷の高さは就労後の作業可能性を削ぐには十分である。頭の中に話はあるが、絵や構図はない。これを日中の思考で疲弊した頭で寝る前に絞り出すのは大変である。この記事を書きながら、日本語は母語だがイラストの類についてはネイティブではないということを痛感している。

とはいっても、模写や色塗りは簡単である。頭を使う必要がない。何も考えずに見たまま線を描き、色を塗り、影をつければいい。リアルにするだけなら、時間をかければかけるほど、見たままのものに近づいていく。目で見て、もしかしたら少し脳内で変換して得られた、頭の中の正解に手元のイラストを近づけていけばいい。ネームや漫画を描く作業は、正解も更新していかなければならず、GANの学習過程そのものである。普通は順番が逆なんだろうが。頭の中にボヤッとしたストーリーがある。コマを割ってセリフを書く。ストーリーから外れそうになったらセリフを修正する。より粒度の高い情報が必要になったらストーリーを修正する。そうやって頭の中のストーリーは完成していき、自分が描いているものがそれに適合するかの判定も厳しくなっていく。登場人物の性格が判明していき、最初の方の顔やセリフが気に入らなくなってくる。しかし何度もエポックは回せない。人生では定数倍が命取りである。

脳が疲れている。頭頂部の方で何かがサチっているような状態になり、論文を書く手が止まる。証明が回らなくなる。セリフが何も思い浮かばなくなる。一日は短いが、彼の労働時間ははるかに短い。彼が働くのをやめると、漫画すら読めなくなる。能動的なことは何もできない。囲碁エストで負け続けることを除いては。

受動的なものといえば、最近、ポッドキャストをよく聴いている。日中とりあえずなにか流している。人の話し声があった方がいい。大体二人組があーだこーだ喋っていて、少し作業に集中すると何の話だったかわからなくなる。だが、それでいい。往々にして彼らが衒学的であるのもいい。学科の控室で数学の本と睨めっこしていた頃、そして皆意味もなくボードゲームをしていた頃、あの頃私は正気だった。

それ、誉め言葉ね。

制作記録

とりあえずはじめて漫画を完成させたので、過程とか思ったこととかを記録しておく。作業は大体毎週末土曜日に数時間やっていた。4回くらいだと思う。執筆途中に上達したり描き方を変えたりしたが、1ページあたり10時間くらいだろうか。いま最初から描いたら倍速とはいかずとももう少し早く描ける気がする。

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原案。一ヶ月前くらい。なんか自分にとっては結局これが一番面白い。伝えるというのは大変な作業である。テンポが早すぎる・分かりにくいという感想が多かったので、2ページにすることを考える。

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ということで2ページでかぐや様の設定を使わせてもらうことにした。ところで、スケダンの篠原健太先生がラジオで喋っているのを聴いてなるほどとなったが、ギャグ漫画で一番大事なのは劇団であるという。劇団というのは、キャラクターたちとその関係性をまとめたもの、くらいのニュアンスだろうか。

ギャグは遍く内輪ネタである。読み手に想定されている常識があり、その常識をあえて外す、あるいはその常識を仲間うちで確認する、というのがコメディ的面白さの最も普遍的な形であると思う。この常識と非常識の橋渡しには単なる「異常」に加えて読み手の思い込みを覆すような「発見」あるいはあるあるネタに代表される逆向きの「共感」などがある。

何が言いたかったというと、ギャグ漫画は、あるいは物語は「内輪」をいかに構成できるかが重要である。特に、ギャグ漫画においてその共有が行われていないことは致命的になり、新規のキャラクターを登場させて短いギャグで面白くするのは難しい。なので、ここでかぐや様のキャラクターたちを拝借したのは描き手の負担を非常に軽減している。ただし、会話の掛け合いが原作に寄せられキャラクターの性格が前提とされている分、かぐや様を読んだことがなければ、原案のプレーン人間版の方が面白いということが推測できる。

偉そうに言っているが、漫画のネームを描いたのは(雑な4コマを除いて)初めてなので、コマ割りや視線誘導など学ぶべきことがいくらでもある。。今回も、2ページどちらにおいても三段目の展開が急になりすぎ、読者を置いてけぼりにしている感じがある。(ということを言われて、確かにとなりました。)

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右ページの下書き。このレイヤーを透過して上からペン入れしていく。

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トーンなども入れてひと段落。ダジャレの説明を追加。背景色(トーンの点密度)を全部同じにしたが、単調な感じになってしまった。背景を毎コマ描いている暇はないのでうまく誤魔化したいが…。

ということでヤングジャンプを読んで背景に目を配っていると、背景を全然描かないのに面白い作品として『スナックバス江』があった。同じモノクロ手抜き背景でもここまで違うのか。また最近はカラー版の漫画とかも増えてきており、電子版ヤングジャンプの巻末にかぐや様の過去の回のカラー版がくっついていたりする。そこを見て驚いたのは、コマごとに背景色がピンクであったり緑であったり灰色であったり、とにかく単調にならないようにしている。集中線や効果音、フォントの変更などとにかく飽きさせないためのポイントが大量にある。もちろん完全には真似できないが、背景をうまく「散らす」ことに注力したのが以下の最終版である。

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左ページに関しては、恐らく最も重要なコマは二段目左下の「イラッ」という小コマである。これがない最初の案では返品が非常に唐突になってしまい、何があったのかと読者を置いていってしまう。また、オチを地の文でというのは少々弱いが、テンポをおくために引きのコマを入れた。もちろんこれを見てからジャンプを読むとペンの入り具合とか全然違うわけだが、中身を邪魔しない程度の漫画っぽさにはなっていると思う。

さて、いくつかあった反応の中で想定外だったのは、「茶色いターバンを巻いたちっちゃいロイター板」が面白いというものだ。これは当然会長(右下のキャラ)がドヤ顔で言っているので人工的なだけでスベっているダジャレという扱い(そして会長がとばっちりを受けているという場面)なのだが、これが面白いということになってしまうとダジャレBOXを返品するのもおかしいし、「まともなダジャレはないのか?」というのも謎の負け惜しみになってしまう。。自分のダジャレに関する感性の問題であろうか。

(イラッ…)俺が面白いと思ってること、大抵ウケないんだよな。二度とギャグ漫画なんて描きたくない。まあ絵の話ではなく内容の話になっている時点で、一作目としては上出来でしょう。もうこれはシリアス系ストーリーでやっていくしかないな。

 

俺たちの漫画道は始まったばかりだ!

 

2021

ここ数日、アホみたいな生活リズムが定着しかかっていた。これではいけないと雀の涙ほどの陽光にすがって、ブラインドを上げて午前中に起きてみた。眠気にしたがって健全な時間に気を失うと、4時間くらいで目覚めてしまった。慣れたものである。

もう一度寝ようと目を瞑って体を左に向ける。右手の甲がひんやりとした無機質な壁に触れそうになる。寮のベッドは寝心地が悪い。根津にいた頃は完全だった。寝具ではなく街がそうだっただけかもしれない。

冴えないが目覚めてしまった頭が勝手に回る。そうか、と思う。2021年はもうすぐ終わる。この区切りが自分にとって重大なのかはよくわからないが、終わるんだな、という高揚感が湧き上がってくる。去りゆく年のはじめの方を思い出して、むしろまだ終わってなかったのか、と何故か安堵を覚える。あのロックダウンからまだ一年経っていない。

日本とイギリスでは年度始まりが違う。うちの大学では10月からである。このちょうど半年のずれは、西暦の境目とあいまって、年単位の時差ボケを引き起こす。コロナで引きこもりがちだったから、またイギリスでは太陽がサボっているから、時差ボケはまだあまり治っていない。刺激がないと治らないのである。日本に帰国してアパホテルに隔離されている間、生活リズムはずっとイギリス時間だった。スピードクライミングを観戦しながら寝落ちして、起きたらリードの終盤だった。

なんで留学なんかしたんだろうとずっと思っていた。理由は分かっている。今まで自分の決定には、あまり意思が介在していなかった。最適化問題を解くまえに、制約に疑問を持つ方がいい。でも見ない方が楽だからね。

8月と9月は日本にいた。これも時差ボケを助長させる。就職していったやつは酒と投資の話しかしない。そんなもんか、とまた一人俺が死ぬ。もう東京には居場所はない。早く俺もここで働きたい。

卓球部に入った。英語と数学以外でコミュニケーションがとれるのはいい。多分、学部の頃より真剣に練習している。ちゃんとイングランド中部二部リーグとかで毎週公式戦があるからかな。こういうのがこの歳になってまたやれるとは思ってなかった。首都大戦はあんまり行けなかったし。キャプテンを見てると、俺もシャキッとしないとなと思わされる。I'm not sure とか言ってないで。

研究はどうだろう。なんだかんだ渡航してから少しの間は結果が出る。去年みたいにこの結果を少しずつまとめるのだろうか。学部を卒業してから、誰も読まない論文をコンスタントに書いている。この勤勉さは必要か? 考えるのはもうだいぶ前にやめた。結局、自分が説得できればそれでいい。そこに論はないが、俺の中で答えは出ている。

時間がある。20代の残り時間は少ないのに、留学が終わるまでの時間はたんとある。数少ない新生活の恩恵は、新しいことを始めやすくしてくれたことである。人と会う機会が減って、自分を見つめる時間が増えた。この国にいるとどうせ何もできないので、何かしようということになってくる。かつてTwitterとアニメで単調に終わっていたおうち時間は、今や挑戦の場である。これは多分、進路を白紙に戻したからだと思う。やりたいことを見つけるのは難しいが、思いついたことを全部やればいい。得意なことばかりして生きてきた人間には、また新鮮な時間である。

とは言っても、秋からは人と関わることも増えた。1年目にまともに人と会い始めたのは5月末からで、一番仲良くなった人も日本に帰ってしまった。イギリスの修士は1年で関わりのある層としてはそこがボリュームゾーンなので、そもそも入れ替わりが激しい。その中でもロックダウンのあった去年度は難しい年だった。それに比べて、今年度は院生の集まりだったりポスドクの人達が主催している集まりだったり年度始めから色々ある。

12月、ターム期間が過ぎてからも、数学科や卓球部の人々とのイベントもあれば、日本人たちとの集まりもあった。クリスマスパーティーとかいくつかは柄にもなく主催したので、反動で引きこもることに幸せを感じたりもする。日本人というだけの集まりには大学の時みたいに気が合う人を見つけるのは難しい。ホモソーシャルのぬるま湯が恋しいが、この全然バックグラウンドの違う人たちが入り混じるカオスもまた得難い経験かもしれない。一つ学んだのは、ひねくれた人間は愛がないと許せないということである。気をつけなければ。

明日も日本人の家で紅白を見る。JSTVってのに契約してる人がいて、リアルタイムと別で再放送をヨーロッパ時間に合わせてやってくれるらしい。日本にはなかなか帰れないが、こっちでの年越しも悪くない。やっぱり去年が異常だったのだ。つい去年と言ってしまうが、今年の前半である。

長い一年だった。本当に。

この一年を乗り越えられてよかった。本当に。


それではみなさん、よいお年を。

1年目

飛行機の中である。さっきまで浅野いにおの『デデデデ』を読んでいた。途中、なんだか涙が止まらなかった。

ここ何十時間かわからないがずっと色んな椅子で寝たり起きたりを繰り返して今はあまり眠くない。やっぱり旅の最後は感想文を書くと相場が決まっている。

パソコンを取り出すのが億劫なのでiPadのメモアプリを開くと、2019年4月のウクライナでの日記と、去年2月のオーストラリア旅行の麻雀の勝ち負けの記録だけがあった。海外に行った時しかこういう機能は使わないらしい。そうだ、あれが私にとって最後のオンサイトの国際イベントだった。再びスタッフとして参加する予定だった翌年の大会からは、世の中はずっとオンラインである。オーストラリア旅行はまだ記憶に新しい。高校同期の卒業旅行だったが、院試のオンライン面接が入って急遽日程をずらして後から参加した。出る時にはあまり大事ではなかったが、旅行先で段々とダイヤモンドプリンセス号のニュースが取り沙汰され、帰国した頃には既に空港が異様な雰囲気に包まれていた。あれから1年半、世界は変わってしまったままである。

そういう意味で、久しぶりの帰国である。B2くらいからはなんだかんだ毎年海外に行っていたから、かなりブランクを感じる。帰国ブランクが祟って一本乗り損ねたのかもしれない。

同じ時間を過ごしてもその体感は歳を重ねるごとに短くなっていくというが、この一年は大学に入ってからでも指折りの長さだったように思う。まあ初めての経験ばかりだったという話で、そして一番苦しい一年だった。留学2割、コロナ8割くらいだろうか。

秋に渡航してから、2020年の間は非常に順調だったように思う。あるいは熱に浮かされていたとも言える。特に11月ロックダウンが再開してからはずっと数学のことを考えていて、かなり早い段階で面白い結果が次々と得られた。12月にはそれと並行して絵の練習も初めて、生産性という意味では今考えると信じられない勢いであった。そして案の定、1月に精神が壊れる。

メンタルの不調という点で言うと、デフォルトで鬱々としているのを責めないことにすれば、大きく沈んで一週間単位で何も手につかなくなったのは1月、3月、5月の3回である。パターンとしては非常にわかりやすく、1月と3月は連日深夜まで論文を書き続けて終わった少し後にダメになり、5月は数日間ずっと考えていた問題が解けた直後である。こうして書くと燃え尽きっぽいが、どれもその成果に対するフィードバックへの深い失望から来るものだったと思う。別に教員に限らないだろうが、成果物へのフィードバックというのは一言「いいね!」と言った後で修正の方向性などが長々と返ってくる。科学の基本はクリティカル・シンキングである。ロックダウン下で絞り出した成果があっさりと流されていくように思えるのはやり場のない苦しさがある。

世の中そんなもんである。現場で働く人間を労う上司、あるいは仲の良い友達同士であっても、褒め言葉なんてものは滅多にないしあっても抽象的である。ディティールに対してここが良いね!と言って回るのは重要だが難しい。比して、具体的な指摘をするのは簡単であるがされて気持ちの良いものではない。そういう構造的な上司への鬱憤は同期や部下同士の軽口で解消され、会社は不健全ながらも回っていく。そういうセーフティネットはコロナによって失われ、溜め込んでしまう人は増えているだろう。

一般化する必要もなく、私が単に承認が足りない生活を過ごしていたということだ。状況は少しずつであるが改善している。一番新しい原稿を書き上げた後は別に長い燃え尽きはなかったし、やっぱりフラットメイトの勧め通りオフィスに毎日行き始めたのが良かったのだろう。単に日常会話が増えるだけで良い。たまには教員とホワイトボードを囲んで議論できれば良い。そして、体は動かした方が良い。

精神の浮き沈みが激しかった今年序盤であるが、1月と3月大体半分以上手が止まっていたように思う。ドラマを見て、アニメを見て、小説を読み、ラノベを読み、時々消費に飽きて文章を書く。感染爆発に悲壮感漂うイギリスの年初はそんな感じだった。絵を描くのは結構エネルギーがいるので、毎日やっていたのが途切れてからはむしろ忌避していた。最近またふとやる気になったりするので、良い傾向である。

5月末あたりからは毎日オフィスに行くようになった。これは非常に精神に良く作用したのだが、また別種の寂しさが加速された。平日オフィスから帰ってくると、もう日本人は寝ている。たまにdiscordを眺めても、そんな時間に起きているのはパソコンをカタカタしている謎の集団くらいである。もちろん、現地での交流もあるにはあるが、ご時世からしてそんな毎日外で飲み会みたいな雰囲気ではない。出鼻を挫かれて友達作りに失敗したことは素直に認めよう。オフィスに行き始めてから、あるいはワクチンによる第一谷のあたりからは交流が増えていったので、年度末に近くすぐに人が散り散りになってしまったことを考えれば、次の秋からはもう少し楽しく過ごせるかもしれない。

ノリで留学を決めた頃には全く覚悟できていなかった暴れ方をしたのでこの一年というと自分の精神状態ばかり思い浮かぶが、もう少し留学記っぽいことも書くべきだろう。そういえば奨学金向けにも文章を書かないといけないんだった。こんな内向的な文章しか出てこないようではよろしくない。重複を恐れずに、もう少しそれっぽく書いてみる。

入居初日のことはよく覚えている。イギリスは、あるいは少なくともオックスフォードは、実際には言われているほど天気が悪いわけではなく、雨の時も傘をさす必要のない霧雨が主流である。しかし、私が来たばかりの10月頭は非常に天気が悪く連日土砂降りであり、イギリスの天気が悪いというのはこういうことなのか勘違いして困り果てていた覚えがある。

私は当初の希望が外れ、カレッジから歩いて20分くらいの距離のオフサイトの寮に住むことになっていた。入居当日、カレッジで鍵を含め諸々の書類を受け取ったあと、土砂降りだったのでタクシーを呼んでもらって寮に着いたのだが、タクシーが去った後、寮の門が私の学生証では開かないということに気付いた。多分正確にはどうやって開けるのかもわからず、学生証を使ったら開きそうだけど何を試してもダメだという感じで途方に暮れていたと思う。カレッジに連絡するために、一応買っておいたプリペイドSIMの電話を試してみたがどういうわけか電話がかからず、結局たまたま通りかかった隣の建物の人が学生証でゲートを開けてくれた。どうやら私の学生証がまだアクティベートされていなかったようである。この時点で既に全てがびしょ濡れで大変先が思いやられていた。

さて、入れたはいいが、なんとかしてカレッジに連絡してシステムを更新してもらわないと家から出れても帰ってくることができない。メールも送ってみたが暫く反応がないので、結局雨の中カレッジまで行くことにした。今度は身軽なので折り畳みをさしてカレッジまで歩いたが、傘は特に何の役割も果たさず、初めて歩く道をGoogleに尋ねながら既にこの時点で半泣きであった。カレッジに着くと「雨の中歩いてきたのか!寮のインターホンのとこからカレッジに直接通話繋がってそっから遠隔でゲート開けれるのに!」みたいな反応をされた。いや、知らんが…。そんな面倒な仕様にする前にアクティベートを済ませてから配布してくれ。処理が終わるまで、日本人が物珍しいということで、ブラジル出身のスタッフが延々と「オマエハモウシンデイル」とか日本アニメのセリフをずっと並べ立てていた。意味は分かっていないと言っていた気がする。というのが初日であった。

10月の間はロックダウンもなく6人までなら食事などにも行けて、何回かカレッジや奨学金のグループで集まった。IELTS対策を経て学部時代よりは英語力は向上していたが、やはりネイティブ同士がパブで喋っているのは本当に聞き取れなかった。別に今でも全て聞き取れる訳ではないが、この頃は私が話を振られたタイミング以外は会話に何もついていけず、毎回居た堪れなくなっていた。その意味で、コロナに出鼻を挫かれたとはいえ、他の学生と、特にネイティブと仲良くなる程会話ができる素地がそもそも最初の月にはなかったように思う。それでも、寮で同じ階に住んでキッチンをシェアしている人達とは必然的に話す機会が増え、半強制的に仲良くなることができた。一対一で喋る場を何回も作れれば、拙い英語でも慣れてもらえるものである。

やっと留学生活に慣れ初めていた頃に、コロナの状況が悪化して11月頭にロックダウンになった。おそらくこのタイミングの規制強化はロックダウンとは呼ばれていないが、原則家を出るな、外食は持ち帰りのみということになり、要はロックダウンである。勘弁してもらいたいものである。この時点でフラットメイト(寮の同じ階の人たち)以外とは関わりが実質的に絶たれ、まあ研究しかやることがなくなる。11月は本当に数学に没頭しており、毎週新しい定理を証明していた。忘れかけていたがこの頃TAもやり、学生の筆記体を解読したりオンラインで画面共有して問題解説したりもしていた。TA自体は嫌いではない。特に研究が煮詰まってネットサーフィンに終始している時期であれば、こういう教育活動に救われる面があると思う。

色々忘れているがカレンダーを見るといくつか思い出してきた。12月にはbroadeningというので専門外の分野の修士向け授業に関連して発展的なレポートを書くというのを二つやった。片方は分数階ソボレフ空間とか軽いものを書いたが、もう一つはリー群・リー環について(完全に代数的な)Adoの定理を認めた上でリーの第三定理などをほぼself-containedにまとめるものを書いて、これは結構大変だった。一週間くらいかかった気がする。

この時期に別で突然やらされていたこととして2月の国際学会のオーガナイザーがあり、役目を押し付けられた学生3人で何回かミーティングをしていた。リモートで何回も英語を聞き直しまくってこれもまた居心地が悪かった。出来るだけコミュニケーションの必要ないホームページ作りやパンフレット作成を引き受けた。まあどう立ち振る舞うべきか難しいところである。

12月も中頃になるとイギリス人はみんな実家に帰り、寮に帰省失敗したギリシャ人と2人でいる期間が数週間あったと思う。もう少し仲良くすればよかったのだが、私はクリスマスで休みをとった彼女が連日部屋で歌っているのにイライラしていた。まあ人によるだろうが私は人が歌ってるのが延々と聞こえてくるのは苦手である。それが理由でこの頃にノイキャンの付いたAirPods Proを購入したのだったと思う。別に揉めた訳ではないが、夏に彼女が寮を引き払う際には欧米式のハグで別れを惜しんだし、和解済みである(?)

それにしてもクリスマスはヨーロッパではあまりにも重大なイベントであるようである。イギリス政府はクリスマスは仕方ないということで規制を全国的に緩和し、その後の年始の感染爆発に奇麗にバトンを繋いだ。彼らはみな帰省し、寮に残っていたのはアジア人が大勢を占めていたと思う。

1月から3月にかけては、あまり語ることがない。帰省したイギリス人たちはなかなか戻ってこなかった。確かresearch student以外はオックスフォードに戻るなみたいなお達しが出ていたように思う。感染者数は鰻登りで一瞬解禁された外食もまた禁止され、それはもう大変な悲壮感だった。この頃、公園でソーシャルディスタンスを保ちながら少数の日本人と何回か会っていたかもしれない。年変わる前かも。

さて2月はまたTAやら学会発表やらで忙しくしていて、研究成果もさらに発展しつつあったのでよかったが、最初の方に書いたように、3月に頑張りすぎてダメになるタイミングが訪れる。ここが一番長く、かなり手が止まって呆けていた時期だったように思う。仕方がないから読書やら何やらしていたら、暗い本ばっかり読んでさらにダメになったりもしていた。Lost in Mathは読むタイミング間違えたかなあ。次の研究のアイディアは比較的早い段階からあったのだがなかなか手が動かず、指導教員の謎のこだわりに振り回されたりして(後からこの路線に固執しすぎたすまんみたいなことを言われた)小ネタはどんどん増えていくが執筆がいよいよ億劫になってきていた。そして5月に決定的に沈んでゆくのである。言うまでもないがここまでずっとロックダウンである。

このタイミングでデータサイエンティスト達に電話で人生相談したり指導教員にポエムを送りつけたり色々模索していたが、戻ってきていたイギリス人のフラットメイトにオフィスに行くことを示唆され、ここから人生が動き始める。7月にはみんな学期終わりでいなくなったりしていて、実質的にはまともな留学生活が遅れたのは前年10月と6月だけだった。10月に比べれば英語への憎しみはともかく抵抗はある程度薄れていて、スウェーデン人の先輩と毎日のようにランチをしていたし、めっちゃ心配性なインド人の女の子も時々参加して心配エピソードを色々聞いていた。オフィスに来ていたのはそんな大勢ではなかったが、6月は非常に充実していた。ロックダウン緩和に伴う初めての日本人会の大規模イベントもあったりと一気に知り合いが増えたし、かなり仲良くなった人もいる。ここからはなかなか楽しかったと思う。7月にみんな寮からいなくなって滞在を後悔したりもしたが、論文もまた仕上がったし順調である。まあアカデミアに残るかはともかく、博士はやり切れそうだという心持ちである。

こう書いてみるとまともに留学生活をエンジョイできていたのは6月だけだったんだなという驚きである。まあずっとコロナだったし仕方ない。来年は勘弁してくれ〜

時系列で書くと緩やかな変化なのであまり現れてこなかったが、この国の日照時間は特筆すべきである。オックスフォードの緯度は北緯51度である。中学受験知識としてイタリアのかかとと秋田の男鹿半島が北緯40度なので、ヨーロッパは全体として直感よりも(?)高いところにある。この結果、冬はもう15時半とかにあたりが真っ暗だし、夏はサマータイムもあって夜10時近くでもまだ明るい。イギリスの冬、ロックダウン、みんな帰省して閑散とした寮、これは鬱病の繁殖しやすい環境である。逆に、夏はいつまでも明るくてそれでいて暑すぎず快適である。毎年一週間くらいだけ30℃を超えるみたいだが、それを除けば素晴らしい。その週は、この国に冷房があまりないのもあり、特にオフィスでは日照りも良くて死にかけていた。

さあつらつらと書いてきたがそろそろ眠くなってきた。まだフライトが3時間残っているので、再びの仮眠にでも挑戦してみようか。フライトを逃したバタバタで精神が侵されていたが、振り返ると尻上がりな感じで未来に希望の持てるアカデミックイヤーの締まり方である。この夏日本をエンジョイして、そしてまた去年とは違ったイギリスに戻ってこられることを祈るばかりである。

夏休み

なんかやっていた研究がひと段落したので、夏休みという気分になった。休みといっても、来月学会にふたつ出るし、帰省だとか自主隔離だとか、まあコロナもあるのでそんな休み感があるかはよく分からない。それでも、博士を始めてから能動的に休む時間が増えたので、夏の間に一ヶ月くらいは何かをする時間は取れるだろう。

何か、ねえ。夏休みって何をしていたんだっけ?

修士の頃は、なんだかんだ、忙しくしていた気がする。M2の夏は、あまり思い出したくないがかなりドタバタだった。M1の夏は、初めて学会に、それも3つも参加した。合間で新しいトピックも勉強していたし、カフェの店員さんと仲良くなった。学部の頃から同じスケジュールアプリを使っているが、今見ると学部生の頃は旅行、サークルの合宿、夏季セミ、他にも飲み会やらなんやら色々している。人間的な活動をしている。そういえば、なんかそういうのをこっちでは social というらしい。Friday social とか Grad social とか、めっちゃ使う。多分 social events の省略とかなんだと思うけど。なので social distance を社会的距離って堅苦しく訳すのは多分ニュアンスが違うんだろう。

話を戻すと、私にとって夏というのはなんか3日〜1週間くらいのイベントが散発的にいくつか入っていて、合間にある3日くらいずつの何もない日をダラダラ過ごしていたら通り過ぎていく、そういうものだった。もちろん、もう働いてる人から見ると「何を夏休みなんて寝ぼけたことを言ってるんだ」と思われるのかもしれないが、こういう時は学生であることを主張させてもらおう。日和見主義者の特権である。

それにしても問題である。夏休みなのに、イベントがない。何をすればいいんだろうか。日本の大学生たちは夏休み何をするんだろうか。結局、サークルの合宿とかそういうものは帰って来ないんだろうか。

非日常が与えられずただ休みだけが与えられると困ってしまう。平坦さから逃れるように、思考はメタに逃げ上がる。そうやって何回か押し上げられると、急転直下の袋小路である。

こうやってふと旧友を訪れるようなことが増えていくのだろうか。これは2021年に限った話ではないのかもしれない。それでも、狭い意味での夏休みはあと何回もないんだから、まとまった時間がなきゃ出来ないようなこと、探しておかないとな。

この前の記事(登山 - 小麦をこねる)の続き。

先輩が引退する少し前から、太秦にある(今はもうコーチ陣が移動して別の場所で別の名前のクラブチームをやっているのだが)卓球クラブに週一くらいで通っていた。記憶がかなり怪しいが、このクラブチームはエリートコースと一般コース、初心者コースに分かれていて、俺たちは一般コースに通っていた。俺「たち」と書いたのは、まずキャプテンが通っていたし、そしてそこから誘われる形で俺ともう一人、後から他にもうちの部から通い始める奴がいたからだ。

本当にそんな名前だったかは自信がないが、エリートコースは文字通り小学校低学年から卓球のエリート教育をしていて、大体の選手は中3時に(強ければ中2でも)近畿個人ベスト12の枠を突破し全中に出場、全国でも戦えるような選手に成長する。多分野球とかと同じで高校に上がるとそういう選手の練習拠点は高校メインになるので、クラブチームには中学生までしかいない。一番強い人で言うと全中ベスト8、その後ジュニアとかではなく全日本ダブルスベスト8まで上りつめた女子もいる。サインもらっとくんだったなあ。うちの市にはそういう超強豪クラブチームが二つあって、そういう「どうあがいても勝てない選手」が男子で言うと同学年と一学年下に合わせて4人いた。前の記事で奇跡的に1セット取ってベンチが沸きたった対戦相手というのもそういうクラブチームの人で、ただ上の学年だったので意識することはあれ以来なかった。

まあ物心ついた頃から卓球してる人たちとのレベルの差は絶望的で、彼らが超人的な練習をしているネット一枚隔てた横で我々「一般の部」は平凡な練習をしていた。俺にとってこの場所は何か新しい技術を習得するための場所というよりも、卓球がしたくて週5回の放課後の練習時間では物足りないが故の場所だった。うちの中学からは行くのに1時間弱くらいかかり、面倒になって次の週に振り替えたりしたこともあったが、基本的にはチームメイトのYと週一で通っていた。練習後に太秦の地下鉄駅の近くのパン屋でよくメロンパンを買っていたのが忘れられない。Yとは家が近く、帰りの地下鉄ではよく二人で爆睡していた。

このクラブには意外と他にも同じくらいの強さの同学年が何人かいたりして、仲良くなった奴もいた。練習時間は短かったが、同じ中学以外の選手と戦う良い機会であった。うちの中学から以外に、M中学というところからも学年から二人練習に顔を出していて、確かその頃「キャプテンになったから」というよく分からない理由で親を説き伏せて携帯を手に入れた俺は、彼らとよく連絡を取っていた。彼らとはその前から多分練習試合か何かで知り合っていたように思う。

卓球の練習試合というのは、もちろん二校だけでやることもあったが、多くは顧問の繋がりなどによって会場が許せば四校やそれ以上で集まってやることが多く、私学故に広い体育館を持っていたうちの中学はよく会場を貸すことでその輪に入れてもらっていたと思う。思えばかなり強い学校とも練習試合を組んでもらうこともあって、その頃顧問に十分感謝できていたかどうか分からない。よくあるのは、参加校全体でリーグ戦を組み、まずはペアになった参加校同士で団体戦、次に時間と体力が余っていれば希望者が空いている台で相手校の誰かに申し込んで試合をする、というものだ。団体戦で試合を見れば相手校のどの選手が強いか分かるので、そういう人に申し込んで、その後試合が盛り上がったりすれば仲良くなっていた。良い試合ができればお互いの名前はすぐ覚えるし、仲良くなって次に大会で一緒に昼飯を食ったりする。

M中の二人とは多分そんな中で知り合った。もしかしたらクラブチームが先だったかもしれないし、クラブチームに彼らが来始めたのは中3に入ってからだったかもしれないが、少なくとも中2秋、新チーム発足の時点で彼らとは知り合いであった。M中には同じ学年の部員が三人いて、彼らは皆かなり強かった。なのでM中三人衆と呼ぶべきである。彼ら三人とは全員と仲良くしていたが、クラブチームに顔を出していたのはそのうち二人だけだったと思う。

うちの中学は中1大会で準優勝したと言ったがその頃もある程度充実しており、特に中2の頃から全市に個人で進出していた俺とYよりも明確に強い選手は、中3たちが引退した今、市に10人といなかった。もう一人、中1大会で大活躍した経験者がいたが、彼はその頃少し伸び悩んでいた。M中三人衆は俺やYなら競りつつも勝てるが、他の部員だと厳しい、という感じのレベルだった。しかしM中は部員が少なく、三人衆以外は全て取れると踏んでいたので、俺かYが三人衆から1勝を取ればそれだけで良く、なので団体戦において脅威にはならないというのがその頃の俺の観察だった。

ここでうちの公式戦のスケジュールを復習しておく。

  • 秋:1年生大会・新人戦。どっちも団体戦。1年生の場合はブロック上位2チームが全市決勝、新人戦(2年以下)の場合は4チームが全市決勝に進出。

  • 冬:学年別の個人戦。1年生・2年生ともにブロックのベスト8が全市決勝に進出。

  • 春:学年無差別。個人戦はブロックからで、ベスト16が全市決勝。団体戦はトーナメント一発勝負。

  • 夏:春と基本的に同じだけど、全中に繋がっている。団体で言うと市ベスト4が府大会に進出、府ベスト2が近畿大会に進出。

新チーム発足最初の大会は秋の新人戦、まずはブロック予選からである。抽選が行われ、今シーズンを共に戦うブロックが決定された。なんの因果か団体のブロック予選の初戦はM中だった。M中に負けることはないと思っていたが、三人衆はかなり強いので、初戦で戦いたい相手では全くなかった。

さて、新人戦でのシードは恐らく前年の1年生大会の結果に基づいて決定されていたように思う。これは単なる推測だが、全市決勝の結果ではなく、前年の1年生大会のブロック予選の1位と2位が均等に割り振られるという条件下でくじ引きが行われていたのではないだろうか。うちのチームは2位シードか何かだったように思う。そして、ここは記憶が曖昧なのだが、ブロック内でまた4つのリーグ戦が行われ、それぞれの1位がトーナメントをして順位を決めて全市に臨むという形式だったように思う。さて、1年生大会に部員が足りず出場していなかったこのM中は、妥当なシード権を勝ち取ることができず、この小ブロックに入ってきた。

卓球の団体戦は、中学では6人対6人の形式である。トップ、セカンド、ダブルス、フォース、ラストの5試合を行い、3勝以上した方の勝ちである。真ん中のダブルス以外は全て一対一で、トップとセカンドに強い選手を出して先に白星を稼ぐのが普通である。M中の戦力は練習試合である程度知っていたので(知らない部員が二人増えていたのだが)、いい試合にはなるだろうが勝てると踏んで、一応俺とYを前後半にバラけさせて、俺がセカンド、Yがフォースに入った。トップは小学校の時に少し卓球をかじっていたNである。基本的にM中は俺とYに三人衆を出来るだけ当てたくないから変則的なオーダーを組んでくるだろうと思っていたが、こちらとしてはまあ適当に組めば運が良ければ二人とも当たれるし、まあ全体としては負けることはないだろうし、それよりもシングルスで三人衆と当たれたら良い試合ができるだろうな、楽しみだなという気持ちでいた。

やけにニコニコした向こうのキャプテンと書いたばかりのオーダー用紙を交換し、手にした紙を一目見て愕然とする。

向こうのキャプテンがダブルスに入っていた。

なるほど、俺とYがダブルに出てくることはない、いや、理論上はありうるのだが普通そんなことはしない。ならばダブルスに三人衆を投入することで確実に一本取れる。他の三人衆はフォース、ラストだった。徹底的に変則的なオーダーで、そして勝ちに来ていることがよく伝わった。ただ、俺とYの前後半をバラけさせたのは不幸中の幸いだった。Yが負けなければ大丈夫だ。

しかしオーダーの時点で各試合の勝ち負けがほぼハッキリしており、トップのNと俺、そしてYは絶対に負けられなくなってしまった。いつの間にか精神的な状況が逆転していないか?

結果、Nが負けた。プレッシャーもあったのだろう。対戦相手が思ったより成長していて気圧されたままやられたようにも見えた。トップとセカンドは同時進行で、俺は自分の試合のことなど上の空で、ほとんどNの試合を見ながらプレイしていた。自分に捨て駒をうまく当てられてしまったことに苛立ち、初心者相手にやるように何の回転もかけないサーブを出し、相手が失敗するまで打ち頃のボールを送り続け、手を抜いた無気力な試合をして勝った。この試合のことは深く反省している。しかし、その日の俺にとっては、三人衆との戦いを楽しみにしていたのに、ダブルスに主力をずらしてまで捨て駒をぶつけてくることの方がスポーツマンシップに欠ける行為だと思えたのだ。後日、三人衆から「うちの顧問がお前の試合態度にガチギレしてたぞ」と言われた。団体戦のことばかり気になって、対戦相手へのリスペクトがなかった。後悔である。

さて、勝って一足先にベンチに戻り、Nの応援に移る。確かちょうど1セット取り返して1-2くらいだったと思う。結局、次のセットは取れなかった。並行して始まったタブルスも、この日のために練習してきたのであろう、キャプテンの個人能力だけで立ち回るという感じではなく、連携が取れていた。うちのダブルスも善戦したが、しかしやはり最後はM中キャプテンのドライブが返せない。これも負けた。

多分ダブルスが終わる前にフォースのYと三人衆が一人との試合が始まり、これも良い試合であったが、3-1でYが勝利した。ラストは三人衆の最後の一人にあっさりと負けた。番狂わせは起きなかった。いや、俺たちの敗北という意味で、団体戦としては番狂わせであったのだと思う。1年生大会で市準優勝したチームは、新人戦でベスト16にも残れなかった。次の春季総体は一発トーナメントである。ここでシードが貰えないと、どこに入れられるか分からない。近畿大会出場という目標に、暗雲が立ち込めていた。

多分、こうして負けたあとから、俺は焦り始めた。今のまま顧問が決めた練習メニューを漫然とやっていて良いのだろうか。ダブルスをもっと強化しないといけないのではないだろうか。この頃は部活しか頭になかったので、結構真剣に考えていたと思う。市の主要チームのレギュラーや戦型をルーズリーフにリストアップし、どういうオーダーなら勝てるか、どういう対策をすべきか、というシミュレーションをしょっちゅうやっていた。何か生き急いだ中2は、顧問に「この練習メニューじゃチームが強くなれません、僕に決めさせてください」と言った。明らかにムッとした顔の顧問に「そんな勝手なことを言われても困る。せめて一週間分毎日の練習メニューを考えてきてくれないと」と言われたが、これは予想の範囲内であった。「もう印刷してきています。新チームはこれでやります」

顧問は明らかにつまらなさそうな顔をしていたが、引くつもりはなかった。結果、俺の組んだメニューで翌日から練習をすることになった。個人選手としても発展途上なのにチームの運営を勝手に背負い込んだこの選択は、果たして吉と出るのか。

登山

今シーズンで一番好きなアニメは何といっても、さよなら私のクラマー。原作は『四月は君の嘘』と同じ新川直司で、今回の舞台は女子サッカー。原作はもう終わっちゃったみたいだけど、君嘘と同じで2クールとかで最後までやるんだろうか。主人公は中学まで男子と一緒に練習してたけど試合には出られなくて、そして高校に入学して女子サッカー部に入るところから物語が始まる。他にも凄い一年生に恵まれて、別に主人公がいきなり無双する訳でもないんだけど、時々ノった時に誰も寄せ付けないようなプレーをして、そして何より楽しそうで、好きな作品。

孤独な努力が日の目を見て、でももちろん壁にもぶつかって、それでもどこかユニークな才能があって、というのに弱いんだと思う。やっぱり挑戦者でありたい。気負っていない若者が成長していくのを見ることによってのみ得られる類のカタルシス

こういう作品では、気負う王者側の苦しみにも同じくらい感情移入する余地があって、往々にしてそっちの歴史や思いの方が深かったりして、心が揺さぶられる。ぽっと出の、新進気鋭の若手でいられる時間って一瞬しかない。ちょっと高いところまで来たかもなと思ってしまうと、ふと階段の下を振り返ると、凄い勢いで駆け上がってくる奴がいる。守りに入ってしまって、今までみたいに自由にプレーできない、成長できない。11話を見た後、卓球のことを思い出して、なかなか眠れなかった。

卓球は、気負わない頃が一番楽しかった。部活に入って、初めての公式戦は団体戦だった。確か秋の中1大会。一人小学校の頃から卓球をやってる奴がいて、この学年は結構強いんじゃないかみたいな雰囲気があったけど、ポンポンと勝ち進んで、市の大会の決勝までいった。俺も決勝で優勝チームのキャプテンになんか勝って、団体としても2-3で惜敗だった。うちの学校はいつも団体でいうと市でベスト8、16を行き来してるみたいな(そもそも市のチーム数が50ちょっととかだったかな?)感じで、マグレかもしれないけど、なんかこの学年凄いんじゃないか、みたいな雰囲気になった。

今になってみると、男子校で一学年220人とかいたら運動部強くないと困るわな、とは思う。中学でどの部も割と強くて高校で勝てなくなるのは、スポーツ推薦とかそういうのもあるけど、単純に人数の問題だろう。公立中学が二、三マージされて高校が出来るのに中高一貫の側は人数が変わらないから、その後勝てなくなるのもまた仕方ない。もちろんいくつかの学校には名物顧問みたいなのがいて強さにだいぶ関わってくるんだけど、団体戦は中学だと6人(シングルス4人、ダブルス1組)揃えないといけなくて、物量戦だよなあ。

まあそれはそれとして、部活の大会ってシステムは結構面白い。うちの場合は市の中学が4つのブロックに(抽選でなのか、ある程度前年の成績を均すようになのか)多分秋口に分けられて、そこから次の夏までが1シーズン、基本的に小学校自体にめっちゃやってて入学即戦力ってのでもない限り、1年秋〜3年夏の2シーズンしか戦えない。

  • 秋:1年生大会・新人戦。どっちも団体戦。1年生の場合はブロック上位2チームが全市決勝、新人戦(2年以下)の場合は4チームが全市決勝に進出。
  • 冬:学年別の個人戦。1年生・2年生ともにブロックのベスト8が全市決勝に進出。
  • 春:学年無差別。個人戦はブロックからで、ベスト16が全市決勝。団体戦はトーナメント一発勝負。
  • 夏:春と基本的に同じだけど、全中に繋がっている。団体で言うと市ベスト4が府大会に進出、府ベスト2が近畿大会に進出。

というのが中体連の公式戦の大まかな流れ。で中1の次の公式戦は冬の学年別大会だった。この時には割と部内の実力順が固まりつつあって、1位登録で試合に出た。この順位登録ってのが結構人によっちゃ鬼門で、確か各校8人までしか出場できない。学年別大会は学年ごとに8人だからまだ良いんだけど、無差別になると上下でも争いがあったりする。この登録順位を決めるために大会前に部内総当たりをするんだよな。うちの部は確か最初学年14人とかで、半分近くは大会に出られなかった。

確かそれで1年生大会の結果も加味されて、確か初めての個人戦、ブロック予選第2シードかなんかからのスタートだったと思うんだけど、準々決勝で同じ部の奴に今度は負けて、その後順位決定戦とかもやって5位だった。対外試合で個人戦ってのが初めてだったから、予選通ったことが嬉しくて、その頃はシードの概念もよく分かってなかったし、素直に喜んでたと思う。ブロック予選は同じ学校同士が準々決勝まで当たらないように(8人までいるのでそれ以上は無理)トーナメント表が調整されてるけど、確か全市決勝は各ブロックの順位によって完全に決まってたと思う。ブロック間の置換とかはランダムだったのかな。

で次の全市決勝は1回戦別ブロック4位の奴とあたってよくわからないけど勝って、その次にまた別のブロックの1位の選手に当たった。これがもう強くて、確か最終的に全中ベスト32とかまで行った人なんだけど、公式戦で11-0でセットを取られるという得難い体験をした。まあ手も足も出なくて、笑っちゃったなあ。1年最後の大会はベスト16で終了。

その後の中2の春季大会で飛躍した。大会前日にラケットが折れたんだったな。中1の頃から逆張りで、一人だけカットマンをやりたいって顧問に言って。始めた頃にちょうど女子卓球で王輝が日本一で、松下浩二もまだ有名だったから、普通にカットマンはある程度人気だったかもしれないけど。で台から下がって先輩のループドライブかなんかを底でカットしようとしたときに、床に思いっきりぶつけて、綺麗に取手が取れたんだったと思う。まあそれまでもよく低空でカットしすぎてぶつけてたから、ダメージが蓄積してたんでしょう。

大急ぎで学校の近くの用品店に行って、同じラケットを買ってもらった。こういうところで親がすぐ動いてくれて協力的だったことは、決して万人にとって自明なことではないんだろうな。ラバーをどうしたかは覚えてない。折れたラケットのやつを剥がして張り直したのかな? 新品にするとそのバウンドに馴染むまで時間がかかるからなあ。試合前日にラバー張り替える奴なんていないよ。

それで気負いとか全然なくて試合に出れただけでラッキーみたいな気持ちで出たもんだから、大会は大活躍だった。3年も一緒に出てるから勝ち進めるとは全然思ってなくて、というかそれが初めての学年混合の試合だったんだけど、くじ運も良かった。初戦で2セット先に取られて、やっぱラケット折れたしダメかあなんて思ってたら、体がまだ温まってなかっただけで、そっから3セット連取して、その後調子が上がって、16入りで当たった第8シードの選手にもなんか3-0で勝っちゃった。この時点で全市行きは確定してたんだけど、もう一個勝って、準々決勝で第1シードの選手に当たった。この人は市で優勝争いしてる人で、今でも本名で調べると大学に入ってからの全日本の試合動画とかが出てくる。

なんかめちゃくちゃ調子が良くて、俺が先に1セット取ったもんだからベンチ大騒ぎになって、まあその後普通に負けたんだけどそれでも善戦して、悔しさなんて微塵もなくてただただ楽しかった。冬の学年別大会でベスト8止まりだったのに、今度3年も入れてまたベスト8入ったもんだから、びっくりした。しかも準々決勝で有名人からセット奪うし。

2年の春季団体については全く記憶にない。どうだったんだろう。その頃はまだ3年の先輩が大勢辞める前で、団体はその人達が出てたのかな。少なくとも夏前には3年生がほとんど辞めちゃって、もしかしたら既にキャプテンを除いた先輩に負けなくなってた俺が重ねてクソ生意気だったのが作用していたかもしれない。先輩とはよくしょうもない言い合いをした。でもその前から不真面目な学年だったから、一人圧倒的に強いキャプテンや形式的なところで厳しい顧問とソリが合わなくてということもありうる。そのキャプテンにはマグレ以上の確率で勝てるようになることは結局なかった。

2年夏のブロック予選はシードからスタートしてしっかり通過を決めた。まあ春9位の選手に8入りで負けて、順位決定戦は全部勝って結局9位だったと思う。往々にして9位にはトーナメントの場所が悪かっただけで実力はもっと上って人が入ってくるから、残当。なんかテニスのトーナメントはシード順そのままではトーナメント表の骨組みが決まらずなんか変則的(ベイビーステップで気付いた)だけど、うちの中学卓球は少なくともシード順に勝ち上がれば常に対戦カードのシード和が2冪+1になるようなカノニカルな対戦表だった。

団体戦は8入りでラストで出て粒高対カットマンのチキンレースをフルセットで制してチームのベスト8達成に貢献した。準々決勝でベンチから応援している仕方が生意気だということで相手選手の不況を買ったらしいというのを後から聞いて微妙な気持ちになったが…。個人の全市決勝も、春に出来なかった1勝を挙げて、市ベスト32という最終成績だった。ベスト12までが府大会に行けて、来年は行けると良いな〜と。キャプテンは府大会を惜しくも逃して泣いていたと思う。次からは俺たちの戦いだ、というのと同時に、ここまで本気でやれるかと少し不安だった。

それぞれの大会に思い出があって、書いている側は楽しいのだが、勝った負けたと数字ばかり続いている。夏の大会でも初戦で2セット先取されてから逆転したり、そういう必死な記憶の積み重ねが去来する。それをざっくばらんに書こうとすると数字になってしまうのか。

しかし楽しいのも苦しいのもここからである。2年秋から始まる1年間が全てであった。先輩のいるシーズンは右も左もよくわからないまま通り過ぎていったが、次の1年では強豪校のレギュラーはもうお互いに知っていて、意識しあって、手に入れたメールや携帯で別ブロックの様子を訊きあったりして、そして全員もれなくガキだった。

先輩が引退し、新キャプテンになった。就任時に抱負を求められた。

「団体で近畿に行こう」