文章を書く

まとまった長さの文章を書いてみて思うことは、普段母語として使っているはずの日本語について私が驚くほど不自由さを感じるということだ。 漠然と頭の中に浮かんだアイディアを言語化する作業は、常に自分が使える語彙や文章構造の範囲に射影されたものでしかない。 手なりで出力された何文かをまとめて読み、自然な日本語になっているかチェックする。 近い位置に同じ単語が現れていればうまく置換できないか類義語をあたり、幾許かの一貫性を保つために内容そのものを変更する。 短文が続くような箇所では、音読時にリズムを乱す単語選択になっていないか気にするかもしれない。 そうして完成するのが私の書く「自然な」文章である。

そもそも、教育を受ける過程で自然に訪れる機会以外には文章を書くことについて特別な訓練を積んだことはない。 プロ志望でもない限り、意図的に文章執筆に関する訓練を行っている人間は少ないだろう。 しかし、文章を読む習慣のある人間は大勢いる。 小説や小難しい新書を読むのが好きな人間は周りにも幾らかいるし、そもそも日本社会で生きているだけで執筆業の人間の書いたものを高頻度で読むことになるだろう。

何かを書き表現するということは自分の思考を文章というフィルターを通して周りの目に晒すということであり、体裁が悪ければどれだけ真摯な訴えだったとしても最後まで読んで貰えないこともあるだろう。 そしてそれを評価するのはプロの文章で目が肥えた在野の評論家たちである。 勿論、自分という最初の読者のネイティブチェックを通している訳であり、細かいところの粗を除けば最低限日本語として通用するというは確かだ。 しかし、自分特有の癖は必ずあり、多くの場合それに自ら気付くことは難しいだろう。 「あるいは」という表現を私が非常に好んでいるということは先日のエッセイを書いて痛感したが。

基本的には上述の内容の大半は絵や音楽など他媒体を通した表現についても通用するように思う。 自らは生まずとも他人の作品を評論するという話になると一家言あるという人間は沢山いる。 そして表現という行為の性質からその構造はごく自然であるように思える。 ならば、ここまでの内容は回りくどい言い方で「表現するのは怖いことだ」と主張したに過ぎないとも見ることができる。

文章を書くという行為に特殊性があるとすれば、とは言え日本人である我々は入門を終えているということだ。 絵を一ヶ月強練習したり、ピアノで有名な曲を練習してみたりしても、入門は出来たとしても表現までの道のりは遥かに遠いように感じる。 結局そこでは技能の訓練に終始してしまっており、描いたキャラクターが同定可能なことや有名曲のカバーとして数分楽しめることの先に進むにはさらに何倍もの時間が必要なのである。 その点文章については、少なくとも自分の思考や感情を伝えるという向きにおいては、もう何十年も訓練を積んできたことになる。 英語ならともかく、日本語で書いた文章が何らかの内容を伝えられることは私にとっては当然であり、絵や楽曲のようにひとまずの完成自体に達成感を覚えることはない。 そこで表現された内容は、生まれたての子鹿ではなく、既に大地を駆け回ることもできるかもしれない。

ならば文章を書くという行為は素晴らしいことに思えてくる。 何かを人に伝える手段としてこれほど私が自由に扱えるものもないのだ。 生みの苦しみに付随する少々の面倒や恐怖には目を瞑ろう。 またこうやって何か書いて良いだろうか。 ともすれば私が英語論文を前向きに書けるようになる日も来てしまうのかもしれない。