外出

気分の落ち込みの中に数学の意味を見失った私は、隣人に諭され、先週毎朝三十分かけて研究室へと足を運んだ。いや、元々そこに意味などないのだが。手なりで数学は言語だと言うこともあるが、私は同時にことばのことは非常に面白い対象だと思っている。《言語》が我々の意思疎通を促すデジタルなツールとして言及されるとき、それはことばではなく、数学であり、そしてつまらないものだ。そのような言語を私は数学以外に知らないし、もちろん私は数学がそのような言語だと思えるほど若くもないのだが。

先週の研究室生活は非常に楽しいものであった。三人部屋で私しか大学に来ていないのは少々寂しいが、隣の部屋にも同じく一人来ている二つ上の先輩がいる。先週の平日には、五回の昼食のうち三回をその先輩と共にする。北欧英語のリスニングに苦しみながら、ロックダウン生活で耳にする少数の訛りに調律された耳はまだ汎化に至っていないのだなと理解する。金曜日の夕方にはハッピーアワーなるものがあり、数学科のコモンルームに人が集まっていた。

やはり人と喋るのは良いものである。壁の外にも人類がいたのかと、私の他にも物を考える存在がこんなに沢山いるのだと。同じタイムゾーンで生活する人との交流は、私の現実感を取り戻してくれる。寮の同じ階には私のほかに四人が生活しているのだが。単に生活空間の変化、メリハリということなのだろうか。特に研究室に行って自室より手が動くといった感覚はないが、精神状態はずっといい。これと言って仕事の側が進捗していなくても、合わせて一時間以上かけて数学科に通えば、そこで別にお気に入りなどなくとも音楽愛好家のまねごとをしてリズミカルに歩けば、何か一日が有意義なものだったと思えてくる。

教授は「数学の研究で『問題を解こう』と考えるのは得策ではない。貢献できるであろう領域を、ゆっくりと円を描きながら冒険し、理解していく。その途上で極めて大きな問題が解けることもある」と諭す。ある友人は、これと本質的に近いことを、私の《悩み》に対して言う。我々は皆悩んでいる。私に限らず、人はふとした時、社会の閉塞を、人生の儚さを、宇宙の有限性を憂うだろう。内省的になる期間がほんの少し長すぎただけだ。疲労を少し溜めすぎただけだ。あるいは、今まで悩む暇もなく何かを盲信していただけだ。

私はまたここに戻ってくるだろう。これはそんな特別な悩みではない。むしろありふれた、誰でも抱えているような類のものだ。意味はない。しかし日に当たると機嫌が良くなる。運動するとよく眠れる。そういう風に出来ている。

週末は別の先輩に研究の話でもと誘われロンドンに出かけた。今シーズンはちょうどアニメ『憂国のモリアーティ』を見たりしているのだが、ベイカー街には言わずと知れた探偵事務所がある。彼の銅像があったが、よく考えると誰がその立ち姿を決めたのだろう。ドイルの文章による描写から、どのくらいの同値性を捨象して定まるのだろうか。例えば漫画はまだ分かりやすいと錯覚するが、ライトノベルのイラストはどういう往復を通して定まるのだろうか。私の読み方が浅いだけで、実はみんな物語といえばくっきりとした輪郭を思い浮かべて読んでいるのだろうか。私がキャラクターデザインの妙について無知であるということは確かだろう。ところで、ベイカー街のある Marylebone は「マールボーン」と発音するらしい。Mary + le + bone と発音してネイティブに二度訂正された。一度は「本当にイギリス人は誰もこの土地が Marlebone と発音されるのかわかっていないのだけれど、y は無視するんだよね、まあ別に誰も気にしていないんだけれど」と(実際には確かもっと長く)婉曲的だったもので、別に皮肉とかではないのだろうけど、Britishism を感じて心の中でニヤついた。この責任は私の中の京都にある。

北欧やネイティブに比べて週末のイタリア訛りは随分聞き取りやすかった。これはスペイン・イタリアに共通したローマ字読みに依るものなのだろうか。彼は印欧語の機微について詳しくはなかったが、後から合流したその友人は日本語についてまでよく知っていた。こっちに来てから、会話の途中で教養かぶれた内的思考をすることが増えた。単に発話の頻度が減ったからだろうか。会話のキャッチボールではなく、酷くアカデミックに偏った私の英語そのものによるせいだろうか。恐らく、小学生みたいな口調で気難しいことばかり言っている謎の東洋人だと映っているだろう。

夕日を受けながらだだっ広い公園で飲むビールは美味しかった。なんの話でそうなったか、「日本はもう資本主義レースには負けてしまったが Anime と Manga と Nintendo がある、それでいい」と言えば彼は笑いながら「我々にも Pizza と Spaghetti がある」と言っていた。一国で SDR 通貨を抱える日本の人間がそういうのを言うのは後になって考えると少々嫌味かもしれないが、まあアルコールも入っていたのだしあまり気にしないだろう。ドイツ人の英語の発音を真似して笑う飲み会なんてのもこの国では日常なのだから。

前置きにしては少し長くなってしまったが、この記事の主題としてこれを意図していた訳ではない。記事は別タイトルで、週末の読書によって想起されたものを予定していた。それについても途中まで書いたのだが、今日中に終わらなさそうだし分けることにする。別の着地点を意図して書いていた文章だから、どこか脈絡のないものになっているような気もする。まあいいだろう。ただの日記だ。

一応結びをつけよう。先週を通して数学に意味が見出せた訳ではないが、研究室に足を運ぶことは私の精神状態を劇的に改善した。寝て起きてを繰り返すうちに悩んでいることに飽きただけかもしれないが。機嫌が良いのが続くのであれば、博士号を取り切るまでくらいは続けられるだろう。その後どうするのかは分からないが、無理に今答えを出す必要はないだろう。自分の機嫌をとる方法は一つわかった。この方法にもまた飽きるだろう。でもその前には日本に帰っているだろうか。願わくば、そこであなたとの再会があらんことを。