外出

気分の落ち込みの中に数学の意味を見失った私は、隣人に諭され、先週毎朝三十分かけて研究室へと足を運んだ。いや、元々そこに意味などないのだが。手なりで数学は言語だと言うこともあるが、私は同時にことばのことは非常に面白い対象だと思っている。《言語》が我々の意思疎通を促すデジタルなツールとして言及されるとき、それはことばではなく、数学であり、そしてつまらないものだ。そのような言語を私は数学以外に知らないし、もちろん私は数学がそのような言語だと思えるほど若くもないのだが。

先週の研究室生活は非常に楽しいものであった。三人部屋で私しか大学に来ていないのは少々寂しいが、隣の部屋にも同じく一人来ている二つ上の先輩がいる。先週の平日には、五回の昼食のうち三回をその先輩と共にする。北欧英語のリスニングに苦しみながら、ロックダウン生活で耳にする少数の訛りに調律された耳はまだ汎化に至っていないのだなと理解する。金曜日の夕方にはハッピーアワーなるものがあり、数学科のコモンルームに人が集まっていた。

やはり人と喋るのは良いものである。壁の外にも人類がいたのかと、私の他にも物を考える存在がこんなに沢山いるのだと。同じタイムゾーンで生活する人との交流は、私の現実感を取り戻してくれる。寮の同じ階には私のほかに四人が生活しているのだが。単に生活空間の変化、メリハリということなのだろうか。特に研究室に行って自室より手が動くといった感覚はないが、精神状態はずっといい。これと言って仕事の側が進捗していなくても、合わせて一時間以上かけて数学科に通えば、そこで別にお気に入りなどなくとも音楽愛好家のまねごとをしてリズミカルに歩けば、何か一日が有意義なものだったと思えてくる。

教授は「数学の研究で『問題を解こう』と考えるのは得策ではない。貢献できるであろう領域を、ゆっくりと円を描きながら冒険し、理解していく。その途上で極めて大きな問題が解けることもある」と諭す。ある友人は、これと本質的に近いことを、私の《悩み》に対して言う。我々は皆悩んでいる。私に限らず、人はふとした時、社会の閉塞を、人生の儚さを、宇宙の有限性を憂うだろう。内省的になる期間がほんの少し長すぎただけだ。疲労を少し溜めすぎただけだ。あるいは、今まで悩む暇もなく何かを盲信していただけだ。

私はまたここに戻ってくるだろう。これはそんな特別な悩みではない。むしろありふれた、誰でも抱えているような類のものだ。意味はない。しかし日に当たると機嫌が良くなる。運動するとよく眠れる。そういう風に出来ている。

週末は別の先輩に研究の話でもと誘われロンドンに出かけた。今シーズンはちょうどアニメ『憂国のモリアーティ』を見たりしているのだが、ベイカー街には言わずと知れた探偵事務所がある。彼の銅像があったが、よく考えると誰がその立ち姿を決めたのだろう。ドイルの文章による描写から、どのくらいの同値性を捨象して定まるのだろうか。例えば漫画はまだ分かりやすいと錯覚するが、ライトノベルのイラストはどういう往復を通して定まるのだろうか。私の読み方が浅いだけで、実はみんな物語といえばくっきりとした輪郭を思い浮かべて読んでいるのだろうか。私がキャラクターデザインの妙について無知であるということは確かだろう。ところで、ベイカー街のある Marylebone は「マールボーン」と発音するらしい。Mary + le + bone と発音してネイティブに二度訂正された。一度は「本当にイギリス人は誰もこの土地が Marlebone と発音されるのかわかっていないのだけれど、y は無視するんだよね、まあ別に誰も気にしていないんだけれど」と(実際には確かもっと長く)婉曲的だったもので、別に皮肉とかではないのだろうけど、Britishism を感じて心の中でニヤついた。この責任は私の中の京都にある。

北欧やネイティブに比べて週末のイタリア訛りは随分聞き取りやすかった。これはスペイン・イタリアに共通したローマ字読みに依るものなのだろうか。彼は印欧語の機微について詳しくはなかったが、後から合流したその友人は日本語についてまでよく知っていた。こっちに来てから、会話の途中で教養かぶれた内的思考をすることが増えた。単に発話の頻度が減ったからだろうか。会話のキャッチボールではなく、酷くアカデミックに偏った私の英語そのものによるせいだろうか。恐らく、小学生みたいな口調で気難しいことばかり言っている謎の東洋人だと映っているだろう。

夕日を受けながらだだっ広い公園で飲むビールは美味しかった。なんの話でそうなったか、「日本はもう資本主義レースには負けてしまったが Anime と Manga と Nintendo がある、それでいい」と言えば彼は笑いながら「我々にも Pizza と Spaghetti がある」と言っていた。一国で SDR 通貨を抱える日本の人間がそういうのを言うのは後になって考えると少々嫌味かもしれないが、まあアルコールも入っていたのだしあまり気にしないだろう。ドイツ人の英語の発音を真似して笑う飲み会なんてのもこの国では日常なのだから。

前置きにしては少し長くなってしまったが、この記事の主題としてこれを意図していた訳ではない。記事は別タイトルで、週末の読書によって想起されたものを予定していた。それについても途中まで書いたのだが、今日中に終わらなさそうだし分けることにする。別の着地点を意図して書いていた文章だから、どこか脈絡のないものになっているような気もする。まあいいだろう。ただの日記だ。

一応結びをつけよう。先週を通して数学に意味が見出せた訳ではないが、研究室に足を運ぶことは私の精神状態を劇的に改善した。寝て起きてを繰り返すうちに悩んでいることに飽きただけかもしれないが。機嫌が良いのが続くのであれば、博士号を取り切るまでくらいは続けられるだろう。その後どうするのかは分からないが、無理に今答えを出す必要はないだろう。自分の機嫌をとる方法は一つわかった。この方法にもまた飽きるだろう。でもその前には日本に帰っているだろうか。願わくば、そこであなたとの再会があらんことを。

棄却

留学前に英語を勉強していた時だったか、naysayer という単語に出会った。「否定ばかりする人」という意味である。文脈によってはただ「反対派」という意味でも使うのかもしれないが、ここでは属人的な性質としての naysayer についての話である。私はこの単語を見てハッとした。残念ながら私がそうなのである。他人の意見については明確に否定しないよう心がけているつもりだが、特に一人で思考している場合には、ある指向性のある命題が提示されたなら、私はまずそれを否定することから考える。

多くの場合において、否定は肯定よりも簡単に示される。「A ならば B である」という主張が提示された時、A だが B ではない例をたった一つ探してこればいい。数学においてそれは表現形式の差異に過ぎないが、より曖昧な、経験的あるいは言語的な営みにおいては、発せられた主張はあらゆる反論に耐えなければならず、それは困難を極める。この段落の内容だって簡単に反証できる。

こう考える私は、アイディアを否定するのが得意である。自分が何か思い付いたらまずその粗を探し始める。否定するのが得意であることは、正しい道を見つけるのが得意であることに繋がってくる。ありうる道を全て否定して残るのが正しい道である。数学の問題は、正しい道を選択するまで適当に思い付いた方針を棄却し続ければ、いずれ解ける。誤ったアイディアの棄却が速やかに行われるならば、問題を解くのにかかる時間も遥かに短くなる。私が正しい道を選択する確率が正である限りにおいてこの主張は正しく、そして私はこの棄却能力こそが私の数学力の本質であると思っている。

しかし、自分のアイディアを棄却し続けるのはかなり苦しい営みである。数学の問題を考えている場合においてはこの苦しさは精々問題が解けた時の達成感のジャンプ台として、あるいはそもそも解けなさそうな問題に見切りをつけるためのバロメーターとして機能するのだが、もう少し抽象的な段階においてはそうはいかない。次にどんな研究をするか、どんな物語を創りたいか、お前は何をして生きたいのか。選択に消去法が強い効力を持ってきた私は、いざ無限の可能性を提示されると途方に暮れて進めなくなる。だったら選択肢を用意するしかない。既に世にある論文を読む。小説を読む。他の人の紡いだ物語の組合せから、私は消去法で次の道を決める。そうやって生きてきた。そこにあるものへの違和感を大切にして生きてきた。棄却した選択肢については考え尽くしていても、選んだ選択肢についてはあまり考えて来なかったんじゃないか? あるいは全てを棄却してしまったら?

私は強い言葉を使う人間に嫌悪を抱く。彼らは何も考えていない。私だったらそんな思い付きは棄却している。でも彼らは棄却しないだろう。彼らには自信がある。私は強い言葉を使う人間に憧れを抱く。

ことば

ことばについていくつか書いてみる。

次に大きな数

聞き飽きた話題だという人もいるかもしれないが、11の次に大きな素数はなんだろうか?

私にとっては13である。「次に大きな」という言明では、ここでは素数という対象の《大きさ》による整列が行われる訳だが、素数全体を大きい方から整列するというのは無限性から不可能である。従って、素数全体の集合で《次》と言えば小さい方から数えるのが自然である。これは私の後付けの理由であり、答えは理由に先行する。これはもちろん私の感覚でしかないのだが、例えば同様の問題を取り扱った次のブログに私と同じ側の用例が集められている。

kumiyama-memo.hatenablog.com

勿論、富士山の次に高い山は北岳であるし、霞ヶ浦の次に大きな湖はサロマ湖である。では「11の次に小さな素数は?」と聞かれたら何と答えるだろうか。この場合もやはり13と答えるだろう。これらは全て《整列》という観点で正当化可能である。整列方法が二通り以上ある場合はどうだろうか。例えば「1から5の中で、3の次に大きな数は?」という問いである。「1から5」だと「4」と答えそうだが、母集団がもう少し複雑になると3より小さい数のうち最大のものを答えそうだ。《整列》にどのくらい疑問の余地がないかが関わってくるように思える。

同様の話題についての私とは異なる側の主張として、「A の次に大きな」ものとして A よりも大きなものを答えるのはただ数学が苦手なだけではないのかという指摘を見たことがある。確かに、大きい順に並べることが(前に無数にものが続くことになっても)常に可能であるという立場であれば、《自然さ》を排して論理的に思考できていないだけだという主張にも一定の真実があるかもしれない。

しかし、そもそも「次に大きな」という表現の「大きな」は「大きさ」だけではなく「大きい」という指向性を含んでいるのだろうか。連体詞を用いる表現ではなく「次に大きい」というものについても調べるべきだろう。一貫性のために「次に大きな」を用いてきたが、少なくとも私にとってこれらに意味上の違いはさほどないように思える。さて、それを調べるため、いくつかの表現について Google で完全一致検索を行った結果が次である。

  • の次に大きな:約 5,330,000 件
  • の次に小さな:約 208,000 件
  • の次に大きい:約 1,280,000 件
  • の次に小さい:約 550,000 件
  • 次に大きな:約 36,600,000 件
  • 次に小さな:約 8,840,000 件
  • 次に大きい:約 4,250,000 件
  • 次に小さい:約 4,480,000 件
  • 大きな:約 603,000,000 件
  • 小さな:約 337,000,000 件
  • 大きい:約 344,000,000 件
  • 小さい:約 267,000,000 件

さて、連体詞と形容詞の連体形でかなり事情が違うらしい(高い・低いについても同様に調べてみたが、「大きな」が連体詞であることに特殊性があるのではないかと思えてくる)。注目すべきは、「次に」が付与された途端に「大きな」の優位性が跳ね上がることであろうか。これは私の考えている

  • 「次に大きな」という表現では、「大きな」は向きを持たずにただ「大きさ」のみを意味する場合もある

という考えを支持する結果であるように思われる。より踏み込んだ議論についてはそういうのが好きな人に任せることにして、次の話題に移ろう。

言語ゲーム

ウィトゲンシュタインは、やはり哲学者の中でも際立った存在であるように思う。どのあたりが異質かというと、私でも名前と生きた時代を知っているというところである。他に20世紀に活躍した哲学者を挙げろと言われるとラッセルとホワイトヘッドしか自信を持って出てこないが、彼らは哲学者であるというよりは数学者という流れでしか認識していない。ゲーデルもその枠組みに入るのだろうか。20世紀の哲学・思想史というページ(http://zip2000.server-shared.com/philosophy.htm)があったのでザッと眺めると名前を聞いたことのある人が沢山いた。言われて分かるのと自分から出てくるのは全然違うとはいえ、もう少し時代感覚を身につけた方がいいような気がしている。

もしウィトゲンシュタインという名前を知らなくても、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という言葉は聞いたことがあるのではないだろうか。これは前期ウィトゲンシュタインの《写像理論》の帰結である。これは、簡単に言うと、

  • 言語とは《私》の世界のモデルである
  • 世界は《事態》からなり、言語はそれを写しとる《命題》を与える(=写像
  • 《命題》は最小単位である《要素命題》に対して論理操作を反復して作られる
  • この《要素命題》は《私》の経験により限界付けられる

というものである。そして、《私》の経験によって限界付けられた《命題》によって写しとれない《事態》については何も語る事ができない。神や死、倫理がそういうものであろう。《私の世界》においてこれらのものについて語ることはナンセンスであるというのだ。なにか数学サイドでその頃の流行であった公理的集合論の影響を受けているようにも見える。私の曖昧な理解も彼は許してくれるだろう。「心配しなくていい、あなたがたが理解できないことは分かっている」

ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』でこの論を展開した後、哲学の問題はこれによって全て解決したと考え一度研究者を引退し小学校教師等として活動するのだが、約10年後に哲学の研究を再開する。後期ウィトゲンシュタインの研究は死後出版された『哲学探究』に結実し、そこで提示された《言語ゲーム》論は『論考』の行き過ぎた態度を書き直すものであった。

言語ゲームとはなんだろうか。ウィトゲンシュタインが与えた最も単純な例の一つが「台石ゲーム」である。建築現場で親方が「台石!」と叫ぶと助手は石材のストックから台石を選び、親方に渡す。この原初的な言語は「台石」「柱石」「石版」「梁石」の四つの語からなる。ここに文法など後から体系化された概念は登場せず、ただ親方が「台石」と言えばそれは助手が次にすべき動作を表しているのである。ここに建築の仕組みを知らない人が訪れると、親方が何を言っているかを完全には分からないであろう。これが《言語ゲーム》であり、言語の使用は常に暗黙のうちに共有されたルールに基づいて行われているというのである。ここでルールと書いたが、これは厳密に書き下せる類のものではなく、また境界も非常に曖昧なものであるということに注意が必要だろう。ウィトゲンシュタインは子供たちが野原でボール遊びをする時のふんわりとしたルールを例えに出している。

とはいえ、建築現場をしばらく眺めた人は「ははん、これは次に使う建材を宣言して持って来させているのだな」ということは汲み取れるであろう。これは言語使用者側の《生活形式》の一致及び言語ゲーム間の《家族的類似》として説明される。我々が何かを定義するとき、例えば「2」という数を二つのくるみを指差して定義するとき、それによって何を定めているのかが伝わるのは経験構造に共通性があるからであり、より一般に言語ゲームが成立するのは常に《生活形式》の一致に基づくということである。また《家族的類似》の概念は語やゲームが何か厳密な意味において共通性を持っている訳ではなく、沢山のゆるい類似性を持つに過ぎないということを主張する。

ここで提示されているウィトゲンシュタインの議論は終始曖昧なものに思える。そもそも《言語ゲーム》というのは結局のところ我々は何か決定的な定義や理解をそこに与えることができないのだという態度なのだから、むしろ非常に一貫性があるとも言えるだろう。本質の存在の否定は、言語の体系的な研究というのはあり得ないということを示唆しており、この点においては、独我論的な『論考』から彼の態度は変わっていない。

記述主義と規範主義

ウィトゲンシュタインのように「本質などない、言語の研究は不可能だ」と断じてしまうのは簡単だが、現実にはそうはいかないだろう。実際に言語は研究されており、その言語研究で現在取られている態度を記述主義(descriptivism)と呼ぶ。対立する概念である規範主義(prescriptivism)の方が親しみがあるだろう。これは「言語はどのように使われるべきか」を規定し、押し付ける態度である。政策や教育の範疇において広く採用されている姿勢で、従って我々の多くが内面化しているものでもあるだろう。マナー講師は規範主義で飯を食っている。彼ら彼女らが新しいマナーを作り出し、正しい敬語の使い方を独善的に定めるのは単にそれが仕事だからであろうが、規範主義には別の理由もある。

別の、あるいは規範主義の根本的なモチベーションは「変化を止めること」である。言語は絶えず変化する。特に Twitter 等で次々に新たなミームや言葉遣いが提案され受け入れていく様子は端的にいって草が生える。しかしながら、例えば日本という言語を共にするまとまりにおいて円滑に教育や行政を行うには言語は統一されている方が都合が良い。そもそも言語が曖昧であるから法解釈だのなんだの議論されるのに、変化のスピードを人工的に抑えないとなればあの種のものが存在意義を保つのは難しいであろう。

では記述主義とは何か。それは言語学における「正誤の判定をせず、ありのままを書き留める」という態度である。そもそも言語に正解も不正解もなく、今日使われている言葉は明日には死後かもしれない。今使うと誰にも通じない表現が、10年後には常用されているであろう。教育・テレビ番組で規範主義の雨に打たれた我々でもそうなのである。かつて地方によって、あるいは県や集落レベルにおいて方言の分化が止まらなかったのも頷ける。この様子を、あるいは規範的に言えば誤用であるものの発生を記述しその機序に迫らんとするのが現代における言語学である。

私は規範主義が嫌いである。言語とは本来流動的なもので、一つの《誤用》は仲間内で通じず誹りを受けるかもしれないが、誤用が多数なのであれば最早それが正しいのである。規範主義はただのお偉いさんの都合である。言語に正誤を定義する態度が間違っている。それでも、そう思いながらも、私は文法を気にしているし、耳馴染みのある単語でも文章にするときはいちいち意味を確認したりしている。私は社会的動物である。ああ、ムカつく。

おまけ

ω の次に大きな順序数は?

二日酔いである。イギリス人と酒を飲むときは気をつけろという兄の教えをすっかり忘れていた。次からは NO を言えるようにしよう。

頭が痛いとものがうまく考えられない。今人に何か言われてもうまく反論できないだろう。その代わり私は高慢から解放されて、こうやってゆっくりとした文章を書くことになる。

私の中には波がある。その波は一次元的なものではなく、全く数学が色褪せてしまった一方で知識欲に燃えることもあるし、やりたいことが多過ぎて一日の少なさを嘆くこともある。全ていっぺんにやる気がなくなり、ベッドに横たわってアニメを見ることすら億劫に感じることもある。程度の差はあれ、あなただってそうだろう。

例えば昨日までは熱に浮かされていた。ドストエフスキーを読み、圧倒され、何か自分も生み出したいと思い、誰にも頼まれていない長文を書いた。読みにくい、嫌味ったらしい文章であり、同じくらいの長さの『エッセイ』をちらりと眺めると文体が素直で一文も短く驚いた。文豪を真似して仰々しい文章を書いて悦に入っていた、と見ることもできるし、ただ書いていた時の波の高さが、色が違ったんだと思うこともできる。

やさしい文章を書きたくなることもあるし、長ったらしい言い回しを使いたくなることもあるだろう。今は、ひねくれた文章を少し想像しただけでも頭にひびく。勘弁してもらいたいものだ。

研究だってそうだと書こうとしたのだが、もう完全に思考が止まってしまった。睡眠の波が来たらしい。

波が低いなら、岸を下げることだ。これはそういう試みである。

文章を書く

まとまった長さの文章を書いてみて思うことは、普段母語として使っているはずの日本語について私が驚くほど不自由さを感じるということだ。 漠然と頭の中に浮かんだアイディアを言語化する作業は、常に自分が使える語彙や文章構造の範囲に射影されたものでしかない。 手なりで出力された何文かをまとめて読み、自然な日本語になっているかチェックする。 近い位置に同じ単語が現れていればうまく置換できないか類義語をあたり、幾許かの一貫性を保つために内容そのものを変更する。 短文が続くような箇所では、音読時にリズムを乱す単語選択になっていないか気にするかもしれない。 そうして完成するのが私の書く「自然な」文章である。

そもそも、教育を受ける過程で自然に訪れる機会以外には文章を書くことについて特別な訓練を積んだことはない。 プロ志望でもない限り、意図的に文章執筆に関する訓練を行っている人間は少ないだろう。 しかし、文章を読む習慣のある人間は大勢いる。 小説や小難しい新書を読むのが好きな人間は周りにも幾らかいるし、そもそも日本社会で生きているだけで執筆業の人間の書いたものを高頻度で読むことになるだろう。

何かを書き表現するということは自分の思考を文章というフィルターを通して周りの目に晒すということであり、体裁が悪ければどれだけ真摯な訴えだったとしても最後まで読んで貰えないこともあるだろう。 そしてそれを評価するのはプロの文章で目が肥えた在野の評論家たちである。 勿論、自分という最初の読者のネイティブチェックを通している訳であり、細かいところの粗を除けば最低限日本語として通用するというは確かだ。 しかし、自分特有の癖は必ずあり、多くの場合それに自ら気付くことは難しいだろう。 「あるいは」という表現を私が非常に好んでいるということは先日のエッセイを書いて痛感したが。

基本的には上述の内容の大半は絵や音楽など他媒体を通した表現についても通用するように思う。 自らは生まずとも他人の作品を評論するという話になると一家言あるという人間は沢山いる。 そして表現という行為の性質からその構造はごく自然であるように思える。 ならば、ここまでの内容は回りくどい言い方で「表現するのは怖いことだ」と主張したに過ぎないとも見ることができる。

文章を書くという行為に特殊性があるとすれば、とは言え日本人である我々は入門を終えているということだ。 絵を一ヶ月強練習したり、ピアノで有名な曲を練習してみたりしても、入門は出来たとしても表現までの道のりは遥かに遠いように感じる。 結局そこでは技能の訓練に終始してしまっており、描いたキャラクターが同定可能なことや有名曲のカバーとして数分楽しめることの先に進むにはさらに何倍もの時間が必要なのである。 その点文章については、少なくとも自分の思考や感情を伝えるという向きにおいては、もう何十年も訓練を積んできたことになる。 英語ならともかく、日本語で書いた文章が何らかの内容を伝えられることは私にとっては当然であり、絵や楽曲のようにひとまずの完成自体に達成感を覚えることはない。 そこで表現された内容は、生まれたての子鹿ではなく、既に大地を駆け回ることもできるかもしれない。

ならば文章を書くという行為は素晴らしいことに思えてくる。 何かを人に伝える手段としてこれほど私が自由に扱えるものもないのだ。 生みの苦しみに付随する少々の面倒や恐怖には目を瞑ろう。 またこうやって何か書いて良いだろうか。 ともすれば私が英語論文を前向きに書けるようになる日も来てしまうのかもしれない。

Let it be

先週 arXiv に上げた原稿の執筆を頑張り過ぎたせいか分からないが、このところかなりうつ傾向がある。 特に論文を書いたり数学書を読んだりしようとすると胸が苦しくなって何も手につかない。 失恋直後の苦しさに似ている。 月曜日の夕方に訳もわからず涙が溢れてきた後、あまり自分を追い込まない方が良さそうだと思い、研究をしばらく休む旨のメールを書いた。 今週、悪化はしなかったものの改善もしていない。 さっき、明日のミーティングもなしにしてくれと頼んだ。 先生は快諾してくれた。 博士で精神を病む学生は沢山いるだろうし、彼らも慣れているだろう。 この文章を書いている今も、チクチクとした痛みがする。

自分のためにも、整理しておくべきだろうか。 将来への大きな不安はない。 十分量成果は出ているだろうし、評価も受けている。 しかし今は、研究のことを考えると疲労感が襲ってくる。 ここのところ少しリジェクトが続いて嫌気が差していたのは確かだ。 その上で本来怠惰な自分を殺して少し頑張り過ぎたのかもしれない。 いろんな研究スタイルがあっていいじゃないか、と自分に言い聞かせる。 修士の時それでもうまくいっていたのだから、別に2週間頭を使ってその後1ヶ月ずっとビッグバンセオリーを見る生活をしたっていい。 奨学金を貰い始めたから、博士だから、オックスフォードだから? お前はどんな環境でも舐め腐って生きてきたじゃないか。 何を今更、勤勉でないことに後ろめたさを感じる必要がある?

オンラインのコミュニケーションには辟易としている。 人の出す空気に乗る時間的・空間的ノイズは、自分の表情も感性も蝕んでいく。 仲の良い友人とする、下らない日本語の掛け合いを愛している。 それとは真逆の位置にあるのが、画面越しの、あるいは異国の言葉での、そして会ったことのない人間とのやり取りである。 ただ無味乾燥とした事実の受け渡しをするだけなら、それは数学と変わらない。 研究の息抜きになるはずの時間を過ごした後、自分はより息苦しくなっていることに気付く。

自業自得だと、そう思っている。 コロナが収まらず、鬱屈とした日々を室内で過ごすことは想像できただろう。 日本から出るからだ、嫌いな癖に海外で博士を取ろうなんて思うからだ。 ざまあみろと思っている自分がどこかにいる。 何かかっこいい横文字たちに引っ張られ、冷静な判断が出来なかった。 東京五輪を笑う自分は酷く滑稽である。

少し休んで、様子を見てみようと思う。 気の向くままに日々を過ごして、まだダメだったら正直にそう言おう。 幸い、成果や時間に余裕はある。 それに、もし博士が取れなくてもいいじゃないか。 何も、人生が終わるわけではないのだから。

追記

ぷりんと楽譜に登録して、新しい曲を練習し始めました! 本当はもう少しお洒落になるはずなので、また気が向いた時に頑張ります!

エッセイ

2015年の3月中旬、吉祥寺のホテルに泊まった。外泊というと常に旅の夜だったが、その時は違った。夜、ホテルの部屋を抜け出して、コンビニでアイスを買った。自由の味がした。

久我山の一室へ入るのがこの翌日である。それから5年半の東京生活、語るようなドラマがあったかは分からないが、ここに記したいと思う。記憶と感情が冷めないうちに。

些か大仰な書き出しで筆をとってみると、入学したばかりのことが散発的に思い出されてくる。入学式の夜だったか、クラスメイト大勢でもんじゃ焼きを囲んだ。あるいはその前に合宿もあった。少しの間張り切って積極性のあるキャラクターを演じようとしたが、そのうちやはり良くも悪くも自然体で過ごすようになった。いつだったか、クラスメイトの一人が筆者の家から徒歩数分のアパートに住んでいることを知った。五月祭で出す食品の試作会で彼が家に来た時、彼は入ってすぐベッドにドサっと座った。筆者は18年間育ててきた尺度を以って、失礼な奴だと心中で断じた。彼は今、最も憧れる友人の一人である。下宿先が近かったという些細な偶然から始まる話は長く、自分の退廃的なそれでいて愛おしい大学生活の一つの柱となっている。そのストーリーの続きに思いを巡らせつつも、ここでは敢えて深くは立ち入らないことにしよう。

自分の交友関係はそれほど広いものではなかっただろう。知り合いはそれなりにいたかもしれないが、自分から進んで他人に連絡を取る質ではなかった。まあ日本の大学というのは元来あっさりしていて、クラスのある東大はその中ではまだ結び付きの強い方かもしれない。しかし一人暮らしなのもあってか寂しがりで、人が集まっている場所にはかなりの頻度で顔を出していた。それは最初の2年にはコムシー地下であり、次の2年には計数の学科控室だった。バイトやサークルのような授業外のコミュニティは、数学オリンピックとスポ愛卓球パートだけだった。以下数オリ、卓パと呼称する。時系列依存の少ないここから始めよう。

卓パについては、割と長い時間を過ごしたと思うが、個々の記憶は曖昧である。少なくとも中高時代の自分が卓球に対して抱いていた向上心のようなものは既に枯渇していて、練習をするではなく漫然と卓球をしていた。強い奴は努力しているという当たり前のこともここで知った。1年の時、首都大戦という六大学の交流試合でサークルの代表団体のメンバーに選ばれながら全然勝てなかったことが向上へのモチベーションを下げるきっかけだっただろう。秋にした捻挫の後、それを言い訳に、筆者はしばらくサークルに顔を出さなくなった。その後2年になりサークルに復帰した頃には、別に強くならなくても個々のラリーが楽しければそれで良いという考えに変わった。それからは、苦しくもなく卓球自体は楽しかったが、特に本気になって何かをしたという記憶もない。中高以来の卓球を競技あるいはゲームと捉える意識が強過ぎたように思う。向上心はないが、本気で練習していないことへの罪悪感は忘れていなかった。だから卓パに関する記憶はあまり清々しいものではない。

卓パでの人間関係はどうだっただろうか。仲の良い先輩は何人かいたし、慕ってくれる後輩もいた。中でも同期は強く人数も多い学年だった。自分の居場所を真に見出すこともなかったが、総じて楽しい空間だった。あるいは、大学のサークルとはそういうものかもしれない。キャンパスが本郷に移ってから、当然ながら参加回数が減った。本郷にも卓パの人が入っているサークルはあったが、あまり行かなかった。体育館が狭かったからかもしれない。大学構内ですれ違えば少し喋る、Twitterの投稿にいいねを付ける、良くも悪くも卓パの人達とはその程度の関係になった。年に数回合宿があり、毎年1つ以上は参加していたが、合宿ではトーナメントをして飲み会をするだけだった。まあそれ以外にすることないよね。4年の秋合宿の大トーナメントで優勝したのは、最後の良い思い出になった。やっぱ卓球を勝負事として捉え過ぎだな。またOB戦でよろしく。

次は数オリの話をしよう。そもそも高校の頃最も強く思い描いていた大学生活は数オリのOBとしてチューター活動をすることだった。それは春や夏の合宿で中高生の後輩の面倒を見ることであり、憧れの先輩たちの輪に加わることだった。もう記憶の彼方だが、実際に高校生の時にどういう心境だったかは高3の頃に書いた文章がどこかにあるはずである。また将来まとめて読み返すことがあるかもしれない。数オリでの活動は非常に楽しかった。高校の頃から地続きのコミュニティに多くの時間を捧げてしまったことには何処か勿体無い向きもあるが、高校の頃先輩に憧れて頑張ったあの時間がなければ今の自分はいない。恩返しが出来たとは思わないが、一定の務めは果たしただろう。

高校の頃も含めて、ここで多くの人に出会った。自分より数学の話が好きで利発な人間で溢れていた。そこそこの難しさの数学の問題を数時間で解ける、というのは最早自分のアイデンティティではなかった。そういう集団に属することは後にも先にもあまりないだろう。少なくとも大学はそういう場所ではない。様々なものが去来するが、言語化することは難しい。例えば、自分が長らく抱えていた自信のなさを克服したのはここである。数オリ日本代表になったことではない。それは、用意されたステージの上でたまたまあの時上手く歌えたという経験でしかなかった。自分の中に漫然とあった無能感を破る契機となったのは、選手の時解けなかった類の問題も時間をかければ解けると気付いたことである。

国際数学オリンピックでは、4時間半で3問のセットが2日間実施される。いずれのセットも、基本的には1問目、2問目、3問目と順に難しくなっていく。3問目は3番級と呼ばれ、国際大会に参加する総勢600人の参加者でも20人程度しか解けないことが多い。金メダルは毎年40人程度に配られるので、3番級が解けなくても金メダルが獲れるのである。筆者もその一人だった。チューターになってからも、生徒向けに解説をするためであったり、単なる好奇心であったり、日本チームが参加する大会の問題はよく解いていた。そこで気付いたことは、生徒の頃は解けなかったその3番級の問題であっても、例えば3時間あるいは1日考え続ければ基本的には解けるということである。もちろん試験時間中に解き切れる問題ばかりではないが、高校生の頃自分には一生解けないかに思えた問題も、試験時間や代表選抜のプレッシャーの制約を取り去ってしまえば、手の届かないものではなかったのである。このことは自分にとって大きな意味を持った。逆に言えば、それまで自分は競技者の域に達していなかったということになる。時間内に問題を解く競技としての側面に気付く前に、才能というよく分からないもので門前払いされていると思い込んでいたのだ。そして、青春時代に抱いていた純粋な憧れは過去のものとなった。機序は自明ではないが、この気付きが20年間の自信のなさに何らかの意味で終止符を打ったと直感している。

コミュニティとしての数オリについても書けることはいくらでもあるが、筆を進めるのが厭になる前に本筋に移るべきだろう。一つ付け加えるとするならば、自分は数オリの合宿、特に夏季セミナーが大好きだったということだ。小淵沢で抱き始めるあのむず痒いまでの高揚感に、また何処かで出会いたい。

既にある程度書いてしまったが、2015年の春に話を戻そう。最初こそやる気に溢れていたが、京王井の頭線で毎朝寿司詰めになるのに辟易した筆者はやがて午前中の授業には顔を出さなくなった。幸いにして午前中に必ず出なければならない授業は少なかったように思う。2限にALESSがあっただけだろうか。ALESSというと毎度思い出すが、班が機能せず完全に個人プレーになった自分は2人の友人に頼り実験を手伝って貰ったのを覚えている。手伝いと言えば聞こえが良いが、自分は足手まといになるので二人の実験中横でカールを食べていただけだった。勿論データ収集や英語レポートの執筆は自分で行ったが、あの単位は自分で獲得したとは言えないだろう。申し訳ありませんでした。

Facebookかどこかで入学前後に「理数か理物で迷っている」と記述した覚えがある。結局最後まで物理には一切の興味を抱かなかった。一瞬衝動的に相対論を理解したくなったこともあったが、物理で要求されている計算力は自分にはなく、直感的に運動方程式とやらを立てるのも苦手だった。1年目で最もひどい点数をとったのも力学で、試験で全てラグランジアンから運動方程式を導出していたら全く間に合わなかったという笑い話である。熱力学も最初こそ少し興味を抱いたものの、五月祭終了辺りから午前中の授業に出席する精神的ハードルが上昇し、結局試験前に友人のノートを眺めて単位を取ることになった。とは言え1年の頃は出るべき授業も多く、基本的に毎日午後には大学にいたはずである。コムシーという対になった建物の間に正方形の机が並んだ地下スペースがあり、そこをコム地下と呼んでクラスメイトと屯していた。一部の不遜な集団はそこをロシア領と呼んでいたが、実に周りの見えていない連中であった。因みに自分の第二外国語はフランス語であったが、特に思い出はない。フランス語の授業自体は楽しかったが、テストの点は取れるが結局何も身に付いていないという状態を抜け出すことはなかった。フランス語を選択した理由は言うまでもないだろう。

そのフランス語の授業を共にする30名程度の人々がクラスメイトだった。我らが理一39組はよくコム地下に集まっていたが、誰が頻繁にいたのかはあまり覚えていない。確か五月祭のあたりにクラスの中でも特に一緒に遊びに行くようなグループが一つ形成され、今でも時折交流がある。本当に仲が良いかと聞かれると難しい問題である。この頃に人を家に泊めたり逆に人の家に泊まったりする楽しみを覚えた。ただし人の家に泊まった経験は泊めた経験に比べてかなり少ない。これは一つに、枕が変わると寝付けない質なので周りが寝入った後寝息を聞いて過ごす時間が苦手だということがある。3年以降は大学のすぐ近くに引っ越したため、友人の家に泊まることはほぼなくなり代わりに深夜に自転車を漕いで帰宅することが増えた。2回くらい駒込の警察署で呼び止められたことがあり、そのうち1回は学生証を見た警察官が嬉しそうに東大王の話をしていた。深夜にご苦労様です。

クラスやサークルとは別に科学オリンピックやその周辺の繋がりもあった。一学年3000人を擁する東大には、数学は勿論のこと物理や生物のかつての日本代表が集まっており、その一部とはSNS等で入学前から交流があった。前述の実験を手伝ってくれたのは、前年に世界大会で科学実験をしてメダルを獲って来た猛者たちだった訳である。その恵まれた環境を生かして学際的な交流をするでもなく、ただ一緒にゲームをしたり免許合宿に行ったりとごく普通の友人関係を築いていたように思う。免許合宿中、雪が積もった山形の朝一緒に繰り出さなかったことは未だに後悔している。でもスーパー行ってガレージにめっちゃ雪積もってたのは覚えてるよ。今思うともっと周りの人間の知識を享受しておけば良かったな。この歳になって漸く知的好奇心というものがわかり始めてきた。後悔してももう遅いだろうか?

そうやって授業をこなし新たな友人と交流する間、並行して数学の勉強もしていた。教養の微積と線形が勉強になるくらいには何も知らなかったので友人とであったり独学であったり、様々なテキストを読み始めた。入学してすぐに数オリの同期で輪読し始めたのがプリンストン解析学講義シリーズの2巻、複素解析である。放課後に空き教室で黒板を前に議論する日々はやはり大学生活の一つの象徴であっただろう。あまり需要はないだろうが、ある程度読んだ中で記憶に残っている数学書を列挙してみる。もしかしたらこの長ったらしい文章自体よりは需要があるかもしれない。

1年:スタイン/シャカルチ複素解析雪江代数学1ミルナー微分トポロジー講義、志賀ルベーグ30講、岩田 ルベーグ積分、佐藤測度から確率へ
2年:渡辺環と体、雪江代数学2伊藤確率論、石村確率微分方程式(かんどころ)、猪狩実解析入門、黒田関数解析*、新井新フーリエ
3年:Conway, A course in functional analysis、スタイン/シャカルチ実解析、舟木確率微分方程式
修士1年:Nualart/Nualart, Introduction to Malliavin Calculus

英語で書いているのは洋書で、太字が複数人でセミナーをしていたテキストである。3年以降あまり読んでいないように見えるが、これは確率論あるいは解析に興味が固まったのと初期に抱いていた強迫観念が薄れたことによるだろう。伊藤確率論とConwayはそれぞれ学年の頭から読み始めて4年の夏頃まで読んでいたはずなので、4年の後半に卒論を書き始めるまでは1年から通して常に何らかの本のゼミをしていた。伊藤はほぼ完全に読み終わったが、後者はそうでもなかった。

岩田ルベーグが強迫観念に追われて数学をしていた最後の時期に読んだ本だと思う。この頃まで、マックレーンやアティマク等の他のテキストも読もうとしていたが、1年後期にかなり忙しかったのもあり「何が楽しくて数学書を読んでいるのか」ということを疑問に思い始めた。純粋な知的好奇心から始めたはずだった数学の勉強が、いつからか友人の会話についていくために読まなければならないものとなり、やがて苦痛でしかなくなっていた。特に数オリの人々は代数や幾何を勉強する傾向があり、無闇に人と比較して焦らないで済む解析を勉強しようかなと思ったのがこの頃である。確率論という分野が大きな数学の一分野だということは岩田ルベーグのあとがきを読むまで認識の外にあった。周りから逃げるように読んだ数学書の最後に見つけた「この教科書を読んだあなたには、測度論的確率論や関数解析などへと道が開けています」という記述は、希望の光のようだった。確率論、というワードをそもそも思い浮かべさえしていなかった筆者は、佐藤「測度から確率へ」を夢中になって読み、久し振りに心の底から楽しんで数学を学んでいる自分に出会った。そもそも数オリ時代からして不等式評価や数列問題が得意だった自分にとって、確率論や関数解析に惹かれるのは時間の問題でしかなかったのかもしれない。

その後2年に上がり、それまでの人生で最も大きな悩みに直面することになる。東大には進学振り分けというシステムがある。大学に入学する際は大雑把な区分のみで、2年目の夏に希望進学先を提出する。そこで自分は幾らかの葛藤の末工学部の計数工学科というところを選んだ。数学とコンピュータ科学の境界分野、所謂応用数学が研究されている場所である。重要な事前知識として、数学科は駒場キャンパスという新入生が通う場所に位置しており、その他いくつかを除いて多くの学科は本郷キャンパスという赤門で有名なところに居を構えている。

何故数学科に行かなかったのかという質問を何十回もされてきた。高校の頃数学オリンピックに出ていたし、ある程度数学が得意だと周りには認識されていた。数オリに先輩後輩が沢山いる自分にとってそうでなくとも、周囲にとっては、早川は知り合いの中で一番か二番に数学が出来る人間という位置付けであっただろう。そう思って貰えるのは有り難いことだ。だが人は、その無垢な質問を悪気なくぶつけてくる。そう訊かれるたびに苦笑いをしながら、用意されたいくつかの回答のうちから当たり障りのないように選んで答えていた。よく使っていた回答はこの二つに集約されるだろう。多くの友人が本郷に行く中で駒場で何年も過ごしたくなかった。知り合いの、数学を勉強していることに無条件に価値を置く雰囲気が嫌いだった。

本郷に行きたかった、というのは本音である。折角大学に入ったのだからキャンパスライフを楽しみたい。この教養課程で得た多様な交友関係をもう少し続けてみたい。中高6年間を私立の一貫校で過ごして学外の交流といえば数オリだった自分にとっては、それは貴重だった。均質性の根本が異なるだけで、また同様に僅かで偏ったものであったとしても。

数学科の雰囲気が嫌いだったというのはどうか?これも本当である。ただし、注釈を加えておくべきだろう。自分は数学科の雰囲気など何一つ知らなかった。ただ数オリの先輩やその知り合いが喋っている様子から、不勉強な自分が延々と「数学をしていないこと」への罪悪感を抱いて過ごす日々を想像していたのだ。数学科や周りの人間は何一つ悪くないだろう。ただ自分が怠慢で、周りが勉強に勤しみそれを当然と見做す環境に進むことに気が乗らなかったのである。そして、また当然のことだが、別に数学科の人間が数学をずっとしている訳ではないだろう。自分が見ていたのは、若かりし日の数オリの先輩や、その周りの人々だ。皆どこか何かに駆り立てられて数学をしているように見えた。あるいは非常に限られているが、数学を心から愛しているように見える友人もいた。大学一年からやっと数学書を読むという営みをまともに始めた自分には、いつも焦りがあった。自分はそこまで勤勉にはなれないし、無心で数学をすることもできない。そして、自分に理解できない愛や勤勉さを「変人だから」で片付ける。

少し脈絡のないエピソードを挟むと、進振りが終わる前かどうか、少なくとも自分の意向が固まっていたタイミングで一度「俺は変人になりきれない、彼らにはなれないから」という痛い回答を真面目くさった顔でしたことがある。その時、仲の良い友人は笑うでもなく腹立たしそうに「別に変人じゃなくてもいいと思うけどな」と呟いた。うまく言語化できないが、その時自分は救われた気がしたというのだけ覚えている。

結局、自分は数オリの友人を一人巻き込んで、計数の学科説明会に行った。自分が本当に進学を決意したのは、その友人が「ここで良いかな」と言った時である。結局一人では進路も決められなかった訳である。大学の価値は授業などには断じてなく何かを共にする友人の獲得にあるという立場の自分にとっては、分かり易い言い訳になった。

書いていたら非常にどうでもよく思えてきた。しかし19の自分にとっては切実な問題で、何か言葉にして理由付けをする度に苦しかったというのは確かである。今となっては本当のことは分からないが、皆と離れるのが寂しくて本郷に行きたかっただけで、しかし進路決定には何か高尚な精神的葛藤があるべしと勝手に数学科を悪者にしていた、というのが妥当なところだろうか?

実はこの辺りの言い訳がましい文章はそれ以前の内容を書く前に単発で書き下したのだが、どうも1年の最後に確率論と出会った際の明るい気持ちの段落からうまく接続しない。少々メタな視点だが「計数を選んだ理由」ではなく「数学科に行かなかった理由」と描写しているところがそもそもの答えというところだろうか。要は数学科に行かないことにかなりの後ろめたさを感じていた訳である。親を含め周りは自分に数学科に行くことを当然期待していると思い込んでおり(そしてその後何度も驚かれたことからある程度は正しかっただろう)逆に行きたくなくなったということもありうる。進学振り分けという明示的な進路選択の機会に自分の気持ちと向き合った際、どこか受動的理由で数学科に行くことに不健全さを感じていたことは間違いないだろう。それぐらい強迫観念に縛られていた訳である。勿論今でも数学を特別なものだと思い込む、あるいはその逆に張り過ぎるきらいが完全に消えた訳ではないが、計数工学科に進学したことは結果として良い選択だったと思っている。

そうやって自分の心と折り合いをつけて計数に進学したのが2016年の夏である。色々あったと思っていたがまだ学部生活折り返しですらなかったということか。そこからの計数での生活、特に3年になって学生控室に入れるようになってからのものは、心の底から楽しいと思えるものだった。自戒として書いておくべきだろうが、幸せそうに控室で数学の話をしている自分のせいで「数学科に行きたくなかった自分」のような精神状態を他人に呼び起こした可能性は否定できない。「早川みたいなのがいるから計数に来たのに、なんでお前も計数やねん」と冗談混じりで言われたこともある。時折少しでも考えを巡らせることがこの答えの出ない問題に対する唯一の処方箋なのだろうか?

結局興味が出なかったと言った物理だが、計数は物理工学科と授業をいくつか共にしており、いくつかの物理の授業を再び受けることになった。統計熱力学という授業は二項係数のオーダーが関わってくるところに少し面白みを見出せたかもしれない。量子力学ヒルベルト空間の定義が唯の内積空間でダメだった。電磁気学駒場7号館の椅子がどうしても座る人を出来るだけ苦しめるように設計されたとしか思えず、その上で永遠にSI単位系の話をされる拷問に耐えられずすぐに出なくなった。電磁気のテストは過去問と全く同じで、過去問を見て答えを知っていたのに量が多過ぎて解き(書き?)終わらなかったのを覚えている。その後飯を食いながら爆笑していたという指摘をこの前学科の友人から受けた。

3年になって本郷にキャンパスを移し、本格的に計数ライフが始まった。家も井の頭線で得た教訓から徒歩圏内の根津に引っ越しており、四六時中学科控室に入り浸ることになる。例え混み合った教室に行かなくとも少なくとも控室には平日午後はほぼ毎日いたと思う。計数の学生控室は自分にとっては家のようなもので、勉強場所にもなったし、暇人がいれば息抜きにボードゲームをすることもあった。毎日のように晩飯まで控室で過ごしそこから学科同期と夕飯を共にした。学科の性質上気が合う人間も多かっただろう。誰かが驚くほど過ごしやすいということはしかし過ごしにくい人もいた訳である。実際にそういう話をされることもあった。この問題に関しても結論は出ない。

計数の3年は想像していた以上に数学をしていた。数学科に比べると広く浅くやらされるイメージで、既に色々学んでいた自分にとっては良い復習となることも多かった。ざっと説明すると、3年の前期後期にほぼ必修の内容としてユークリッド空間上のルベーグ積分、初等確率論、代数系の基礎、アルゴリズムの基礎、そして何故か代数的トポロジーの触りとテンソル、という5つを解析・確率・代数・算法・幾何の名の下に1コマずつ受講する。ほぼ必修と書いたのは厳密には必修ではないからで、必ず取らなければいけない授業として実験と演習、そしてmallocと格闘することになるC言語のプログラミング演習があった。自分の場合はその他に応用統計、曲面の微分幾何、信号処理、制御理論、そして何故か楠岡先生が工学部向けに教えていた確率微分方程式の授業も受けた。他学科授業も取れるので、本郷に出張授業に来ていたガロア理論の授業と経済学研究科でやっていたデリバティブの授業(要はファイナンス視点の確率微分方程式の授業である)も受けた。どの程度授業に出たかはあまり覚えていないが、少なくとも午後の授業はある程度出席して楽しんだ記憶がある。

4年になると基本的に皆ほぼ必要単位は揃っており、4年輪講、4年演習、4年実験、そして後期の卒論だけが義務となる。何をしてもいい4年実験では、有名な話だが、筆者がPythonに悪態を吐きながらRaspberry Piをいじっている間に毎週ラズベリーパイを研究室のオーブンで焼いている奴がいた。4年演習はお気に入りの講義だった。毎週計数の教員が入れ替わり立ち替わりそれぞれの研究分野やその周辺分野に関する講義のようなものを行い、その最後にレポート課題を出題する。そのレポート課題が中々手強く、様々な分野の研究で出てくる「問題解決」の風味を知る良い機会だった。

少し箇条書きのようになってしまったが、2年の時に受講した数値解析の授業に言及するのを忘れていた。そこで方程式を数値的に解く話をしている際に反復法の話題からバナッハの不動点定理が登場し、ここで初めて筆者は「役に立つ」数学があるということを(微積線形がそこら中で役立っているだろ、という指摘はさておき)実感する。コンピュータに数学を載せることがある意味で前提になっている計数では、今までに気にしてこなかった数学の側面に想いを馳せる機会が必然的に多くなった。2年から少しの間ハマった競技プログラミングで現実における制約としての計算量の概念に親しんでいたのも理解の助けになっていただろう。

総じて楽しく過ごしていた計数生活だが、途中ぶつかった悩みはやはり進路だった。研究者を志していた青年は、そこで初めて研究とは何かについて考える。結局のところ、研究室に話を聞きに行くのが早いと思い、3年終わりの春休みあたりから幾人かの教員個別に連絡を取った。ここで進路選択による選択肢の増大に伴い、ケリをつけたかに見えた数学科への奇妙な感情と再び対峙することになる。計数の2人の他に東大京大の合わせて4人の教員の部屋を訪問し、話を聞く。結局のところ、数学科で何が行われているのかは最後までよく分からなかった。計数の院、数理情報では修士の頭から(もっと言えば学部の卒論からだが)研究活動をするのに比べて、数学科では基本的に研究が始まるのは修士もそこそこになってからなのである。逆に計数で訪問した先生は、勧誘が非常に上手かったように思う。本郷に住み続けられる、環境を変えなくて済むことへの安堵感と共に、そのまま数理情報に進学することを決意したのであった。

さて、学科とは別のコミュニティもあった。教養時代のクラスメイト数人と、むしろ本郷に進学してから会う頻度が上がっていた。元々は駒場時代、久我山で近くに住んでいた友人宅が溜まり場になっていたのがきっかけで、よく非常識な時間にインターホンを鳴らされて松屋に行ったりしていた。どの集団でも基本的にこいつには何をしても良いと思われているのだろうか。何故本郷に行ってから頻度が上がったのかよく覚えていない。あるいは彼と同じ学科に進学して共に過ごす時間が増えたあたりからだろうか。とにかく、週1以上の頻度でクラスメイト5人の集まりが開催され、毎週全員が音を上げるまでボードゲームをしていた。最初は2年の終わり辺りにカタンを定期的にやっており、参加者も多く和気藹々とした様子だった。おかしくなったのはカタンに飽きてドミニオンを買ったあたりからだろうか?とにかく、嬉々としてお互いの精神をすり減らす集まりであった。いつから週1の集まりがなくなってしまったのか覚えていない。大方卒論か何かだろう。

彼らのうち何人かは、淡々と何かを続ける能力が信じられないほど高い。それは自分に決定的に欠けているものだと思っている。あるいは、自分も昔は何かを継続できたことがあったか。しかし続けられたことを正当に評価することは難しい。グループラインで流れてくる楽器の演奏が、絵が、Minecraftの建造物が、マルチサーバー上に突如作られた脱出ゲームが、結局は物事を続けられない筆者の心によく刺さった。しかしその仲間であることは、何か自分にも創造性の欠片のようなものがあるのではないかと錯覚させる。こんなものは横から見ればこそ青いのだということは分かっている。彼らだって数多のことを挫折していると知っている。それでも自分は彼らに憧れる。かつて一つ壁を越えられたように、いずれは自分のやり方を見つけられるだろうか。あるいは遂に尊敬する友人を獲得できたということか。

この文章を完成させることもまた一歩だと願いつつ、キャンパスでの日々に戻ろう。院試に合格した後、卒論を書く研究室への配属があった。結局はじゃんけんで決まった訳だが、もう少しまともな方法はないものか。自分は希望通り、そして逆の逆を張った結果として、機械学習の研究をすることになった。

ここから広げてくれと論文を幾つか渡された。それは自分の知らない数学だった。自分が今まで勉強してきた数学は既に教科書になっているもので、実際に世の中でされている研究はもっと深く、広く、そして細いことを知った。研究とは勉強から滑らかに接続するものではなかった。数学という大きな樹を登るのではなく、むしろ葉を、そしてそこに繋がる枝を手に取ることから始まるものだった。学部4年が半年で卒論を書けるのは何故か。研究を無理矢理始めるからである。結ぶことも等しく重要だろうか。

ちょっとした事件があった。その種の話の例に漏れず、当事者にとってはこの世の終わりかに思えた。人が信じられなくなった若者は、人に初めて依存する。多くはただ見守るだけだったが、ある人は勇気を、またある人は知恵を授けてくれた。時は全てを解決する。結局世界は終わらなかった。

問題を決めるまでは苦しく思えた研究も、解くべきものを一度決めると楽しかった。聞き齧った話から妄想を広げ、人と議論するのもまた楽しかった。間違った予想や既に世で知られた話を幾つか産んだ後、筆者はある定理に辿り着いた。一度示せてみると誰も未だ示していないことが不思議に思えたが、発見とはそういうものか。卒業論文は評価され、学科から一名の工学部長賞を貰う事になった。卒論に関する発表は次の夏の統計関連学会連合大会でも数十の発表の中から最優秀賞をもらう事になる。果たしてそれ程優れた研究だったか。

評価される事は有難い。しかし10分やそこらの発表を聞いて何が判る?意味など無いのは分かっている。テーマが分かり易い。深層学習は何故上手く行っているか?きちんと数学の定理を示している。線形推定量ミニマックスリスクはパラメータ空間の凸包をとっても同じ。絵で分かりやすく説明している。では分かりにくい研究に価値はないのか?評価を決めるのは審査員の気持ち、査読者の直感、編集者の機嫌。仮に学問に真実があったとしても、やっているのは所詮ヒトである。何を今更言っているのか。虚ろなピラミッドは今日も世界で建設中である。

計数と何度も言ってきたが、2つのコースがあることを説明していなかった。数理コースとシステムコースである。自分はもちろん前者である。計数数理と情報理工学系研究科の数理情報学専攻が連携している。連携というか教員がほぼ完全に同じである。アメリカに倣って内部進学者は慣例として卒論と違う研究室で修士を過ごす。本当は順番が逆で、院の研究室を入試で決めた後に卒論配属がある。院では数値解析をやる事にした。例えば数値積分を例にとって簡単に説明しよう。高校で習う積分は値を明示的に(専門的には解析的に、と言う)求めることができたが、そういう関数ばかり積分するとは限らない。そこでは近似値しか求まらない。コンピュータで扱うのに都合の良い近似を見つけたい。あるいはそもそも有限の状態しかない計算機に無限の実数をどう乗せるか?人工的だが重要な問題に折り合いをつけるのも数値解析である。筆者は確率論と数値解析を絡めた研究を志して研究室を決めた。

先生が未解決だと提示してきた問題があった。問題を解くのは得意なので、1週間で予想が立ち、もう1週間で解くことが出来た。喜びも束の間、問題が解けたら論文を書かなければならない。問題を解くのが早いということはただ論文を書いている時間が長いという事になる。別に書くのは早くないからね。これって幸せなんだろうか。また夏に論文を書く。そのうちテーマを変えたいと思うようになる。もう少し確率論に触れたい。父の知り合いが、あるいは知り合いの父と言ってもいいが、その夏確率論の大きな学会が九州であると教えてくれた。教員に聞くとテーマを自分で探すのは良い事だと、研究室から滞在費を出して貰えるらしい。これが一つの転機になった。

九州の学会に同じ所属の人間はいなかったが、東大の数学科に知り合いが二人ほどいたのもあり、雪だるま式にすぐに多くの同世代と繋がる事になった。かつて数学科に抱いていた感情はここでは尻尾を出さなかった。数学科の学生も、筆者と同様に数学を学びそして学ばずそこにいる。今になって思うと、彼らの顔に強迫観念は見てとれなかったように思う。中高生、あるいは大学に入りたての人間に特有のものだったのだろう。別に誰もが数学科に入る使命を勝手に背負って上京する訳ではない。

その頃はテーマ探しに明け暮れ色々挑戦していた頃だったか。M1の夏休み前後に研究室外の教員を何人か訪ねた。「この分野は正直言うともうやり尽くされているかな」授業で興味を持った分野の先生は、正直な話を教えてくれた。「僕が君に今問題を与えることは出来るだろうけど、それでは君の悩みは解決しないだろう」と笑った先生もいた。その通りである。

そんな中、何か応用に繋がるかもしれないということで、確率論の一分野を新たに少し勉強していた。久し振りに一から理論を勉強するのは楽しいものである。学部の頃に学んだ小難しい確率論や関数解析は、常に使う訳ではない。整備され始めた分野の共通言語として、ふとした時に再会する。そうして夏休みに根津の珈琲館で学んでいた分野の専門家が九州で話をするということであった。

結局九州では、少し勉強していった内容の発表も含め、何一つ新しく理解できたものはなかったように思う。あるいは研究発表を輪読の粒度で理解しようという期待がそもそも間違っていた。面白そうにしている人もいた。別に細部を理解している訳ではないように思う。与えられた数式の海を自分の知識と経験に射影しているのだろう。証明の穴を探しながら発表を聞くのは得意でも、人の話を取捨選択して聞くのが苦手なのである。そもそも授業というものは板書をノートに移す時間だった。あるいはそもそも知っている話が展開される場所だった。大学の授業とは大方そんなもんだろう。生徒の歩幅を合わせ、横の繋がりを助けるためのもの以上の意味はまだ見出せていない。

何も理解出来なかったとは言ったが、得たものは大いにあった。まず、自分が数学について面白いと思っているのは常にテクニカルな側面であること。問題の背景が物理にあっても特に嬉しくはならず、工学や情報系にあると少し興味を持てること。そして物理が背景ではない確率論はどうやら日本では主流ではなさそうだということ。研究会をざっと眺め他にも色々調べた結果、研究分野としての確率論は日本では

  • 物理を背景とする様々なモデル(パーコレーション、流体力学極限、行列式点過程など)
  • ファイナンス・物理から出てくる様々な確率(偏)微分方程式とそこへの数値的アプローチ
  • ラフパス解析とその周辺

に大別されると思えた。結局のところ計数で育った自分にとっては、物理から得られる動機というのは如何程のものか見当が付かず、ラフパス解析が魅力的に見えた。学会でついていけなくなった発表を尻目にラフパス解析について調べていると、ヨーロッパの学生の修論が目に留まり、ラフパスの概念とデータサイエンスを結びつけるような流れがあることを知った。これは面白いじゃないか。機械学習のように時流に乗ったものは嫌だと言っていた青年は、伝統的な数学と物理の流れから来る高尚だが省みられることのない動機付けでは最早満足出来なくなっていた訳である。

その後少しラフパス解析を勉強し、その流れの中にある数値解析対象であるWiener空間上のcubatureという概念について研究を始める事にした。原論文は難解であった。それは半年前に研究対象の候補としてヨーロッパ行きの飛行機で読もうとして挫折したものでもあった。しかしモチベーションが明確になった自分にとっては、あとは進むだけであった。研究集会で浴びせられた個々の発表は何一つ分からなくとも、全体像を朧げにでも意識することが出来たのは大きな収穫であった。結局それから修士の終わりまでこの研究に従事し、2つの論文を書いて日本での研究生活は幕を閉じた。

少し具体的な話をしてしまったが、研究以外はどうだっただろう。修士の生活は、それまで控室に居座って話し相手を探していた自分にとっては非常に淡泊なものに思えた。もう同級生が集まる場所はなく、殆どの人間は研究などせず就職活動である。いずれ博士に進むだろうと思っていた自分は、幾度も企業インターンシップの募集要項を眺めるも、ついぞ行動に移すことはなかった。別に博士になってからでも出来る、そう言っている間に博士課程も終わるのだろうか。周りと違うことをするのは辛いものである。何故研究者を志すのか。親が研究者だからだろう。想像力が乏しいのだ。自分にとっての普通は研究者であった。外の世界を知るべき、そういう理由でバイトの応募を探したこともあった。だがそんな動機は結局実を結ばない。最後まで「普通」のことはしてこなかった。まだ何も終わってないけどな!

学会は九州以外にも2つ参加した。前述の統計学会と駒場で行われた応用数理学会である。この2つではいずれも自分の研究成果を発表した。発表自体はさして重要なことではなかったが、学会で人と交流するのは楽しかった。同じ所属の学生や教員と、琵琶湖の上の遊覧船で談笑した。勿論外の知り合いも増えたが、勝手知ったる身内がいれば、九州と違って気楽だった。ああ、研究者にも社会があった。大御所のエピソードも若手のキャリアの話もした。もっと色んな話があった。研究者も皆人であり、それぞれ等しく歴史を持っている。またそんな学会を楽しめるだろうか。この騒動が終わるのが先か、心が折れるのが先か。

そろそろ書くことがなくなってきた。この後に控えるのはご存知の通り失われた1年間である。なんだかんだで留学する事になった訳だが、今の指導教員の一人は先述のラフパス解析の創始者である。そして今は例に漏れずその大御所の下でラフパスに全然関係のないことをやっている。興味とは移り行くものだ。2020年、世界は喪失と共にあったが、筆者は非常に忙しくしていた。普通半年や数年かけてする出願準備を3週間で終わらせる必要があった。この辺りの経緯はFacebookや何処ぞの機関のホームページで読めるだろう。世間が暗いムードになる中、筆者は英語の勉強や早期修了の為の論文執筆で十分に忙しく、寂しがる暇はなかった。人と喋らなければ生きていけない自分にとって、コロナ初期に忙殺されていたのは幸運だっただろう。それ以外にもMinecraftやMarkov Algorithm Onlineが月単位で時間をスキップさせてくれた。ゲームは偉大である。人との会話を欲する同期も勿論おり、学科のdiscordサーバーを立ち上げた。少なくとも初期は非常に賑わっていた。そんなものである。忙しかったとはいえ、毎日の作業は数時間そこそこで、作業中はdiscordで通話したりアニメを垂れ流したり、それなりに楽しんでいた。はじめはコロナの非日常はそれとして新鮮味のあるものだった。

そうして季節の感覚を失っているうちに修士最後の半年は終わった。うまい締めは思い付かない。長々と綴られた日々は結ぶ間もなくどうしようもなく変質してしまった。イギリスに渡航してからのことは物語が終わってからまた紡げるだろうか。この若者の行方を見守りたい。